訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2012-02-13

フェイスブック

日本では定着しないのでは、とまで言われたSNSのフェイスブックだが、タイでは「Hi5」からフェイスブックへの転居組が続出し、「Hi5」はすっかり閑古鳥の巣となってしまった感がある。
実名・顔写真を基本とするフェイスブックはSNSの基本原理が最も守られていて、実務派には受けがいいのだろう。
日本のミクシィも、もともとは招待制の実名主義だったはずなのに、日本人の匿名好きな風土に合わせたため、まったく役立たずの仕組みになってしまった。
どうも日本人はハードには強いくせに、ソフトを上手に使うことが苦手なようである。

ウチの子たちも、大学へ進学するなどしてメールアドレスを取得すると、メッセンジャーやSNSをうまく活用してるようである。
普段の彼らの動向がわかるっていうのは1年間離ればなれの父ちゃんにはとてもありがたい。
ことあるごとにこちらの健康を気遣うメッセージを寄こしてくれるのも泣かせる。
そんな中で何より嬉しいのは、フェイスブックの「友達」で、ウチの子たち同士がつながり始めたこと。
これまでは、僕がハブになってはいても、子供たち同士は基本的に面識は無いわけ。
それが次々につながっていくのを見るのはすごく楽しい。
そのうち、子供たちだけで会って話したり、困った時に助け合ったりしてくれたらいいな、なんて思っちゃう。
友達の友達はみな友達だってのがタイ人の良いところ。
当然、父さんの子供同士はみな兄弟なのである。

2012-02-09

最短記録

プランの現チャイは5人目で男の子としては2人目。
以前にもちょっと書いたけど、チャイルド紹介が訪タイの直前で、訪問できるかどうかはギリギリだった。
プランのチャイルド訪問は6週間前までに関係書類を提出することになっている。
4人目の完全終了を知らされたとき、すでに出国7週間前を切っていた。
タイなら追加支援のつもりがある旨、急いでメールで連絡。
可能との回答もメールで来た。
早速、チェンライの男の子のプロフィールが送られてきたので、チェンライをルートに入れて旅程を決定。
提出した訪問資料が先方に届いたのは、まさに出国6週間前だった。
念のために、旅程の後半に訪問日を指定しておいたが、おそらくチャイルド紹介からチャイルド訪問までの最短記録だったのではないかと思う。
チャイルドにしてみれば、プランの現地スタッフから「日本人のスポンサーが決まったよ」「で、近々訪ねてくるからね」と告げられたわけで、ビックリしただろね。
こんなことができるようになったのも、事務局との連絡はもちろん、ホテル、航空券、レンタカーの予約にいたるまで、全部ネット経由で簡単におこなえるようになったから。
世の中、大きく変わったもんだ。

2012-01-25

プラン危機一髪

タイ警察が、バンコクでテロが起きる可能性ありということで注意を呼び掛けていた。
直後にテロリストとされる人物が逮捕され、テロは未然に防がれたとのこと。
それにしても、今回のテロ計画には驚かされた。
テロの対象とされた建物はオーシャンタワーⅡで、25階に入居しているイスラエル大使館が狙われていたというのである。
実はこの建物、その少し下の階にはプラン・タイランドの統括事務所が入っているのだ。
何年か前、表敬訪問のつもりで立ち寄って、すっかり休憩場所としてくつろいだことがある。
ビルに入るだけでも厳しいチェックがあったのは、大使館まで入居していたからだったのか。
周辺は日本人も多いスクンビット地区で、何かあったら大騒ぎである。
というわけで、日本大使館からタイ在留邦人あての緊急メールが配信されたというわけ。
まだ完全に危機が取り除かれたと言いきれず、警戒は続くのだそうだ。

アメリカ・イスラエルとイランの対立など、またまた世界がきな臭くなってきているのだけれど、ま、いきなり外国でドカンなんてのは二度とやってほしくない。
超大国アメリカの強権ぶりも不戦国家日本の忠犬ぶりも、全然世界平和に貢献できていないどころか、逆効果になってしまっているのがこの世界の不幸である。
国際都市バンコクも、最近国内の権力闘争で評判を落としてしまい、そこへ未曾有の大洪水で体力も大きく削がれてしまった。
この上、外国の紛争に巻き込まれるようなことは絶対あってはならない。
くれぐれもタイの治安当局にはがんばってもらいたいものである。
それにしても、第三国でのテロ行為は国際社会で孤立するだけで、なんにも自分たちに利することが無いってことをテロ指導者はいつになったら理解するんだろ。

2012-01-16

会食

タイ滞在最終日、元プランスタッフの友人と食事をすることになった。
この日はほかに予定も無く、飛行機も真夜中出発なので時間はたっぷりある。
もともと、何かあった時の予備日だったのである。
彼女の仕事が終わってからということで、ホテルで待ち合わせて夕食を一緒にと約束する。
本来なら時間を持て余してしまい、せわしなく街を歩きまわっていただろうけど、腰を痛めているから何もしない時間がありがたい。
昼まではホテルの部屋でゴロゴロ過ごし、チェックアウト後は荷物を預けてロビーでやはりゴロゴロ。
民族衣装の女性が伝統楽器の生演奏をしているのをすぐ近くのソファで聞きながら、チェンマイの古書店で買ってきた文庫本を読む。
不相応に贅沢な時間に、なんでホラー小説なんか買ってきたのかってのが唯一の後悔であった。

文庫を少し読んではウトウトというのを繰り返していると、彼女から電話がかかった。
非常に恐縮して、今夜の食事をキャンセルさせてくれというのである。
現在、バンコクにあるオーストラリアの大使館に勤めていて、何でもタイの警察のお偉いさんと彼女のボスが会食をすることになり、通訳として同行しなければならないというのである。
これはもう仕方が無い。
どちらが重要かっていう前に、出てくる料理がそもそも違うだろう。
ま、直接会うことはかなわなかったが、電話で何度も話せたし、こちらはそれで十分。
来年の再会を約束して電話を切り、早めに空港へ向かうことにした。
結局、一流ホテルの有名レストランへは一歩も立ち入ることなく日本へ帰ることになってしまったのである。

2012-01-13

四女

腰痛のため訪ねていけないので、四女もホテルに来てもらうことにする。
せっかく高級ホテルに泊っているので、ホテル内の日本食レストランにでも連れていってやろうとの思惑。
次男グループとでは絶対いやだけど。

薬局勤めの四女の勤務は午後9時までなので、終わり次第ホテルに来ることになった。
バンコクの北のはずれにいるので、移動はちょっと不便だ。
車代は払ってやるからタクシーで来なさいと指示。
立っているのも辛かったが、時間より早くホテルの玄関に出て到着を待つ。
なぜ日本人だとわかるのか、ドアボーイがサッカーでの日本の活躍を教えてくれる。
乗りつけるタクシーを何台見送ったかもわからなくなったころ、ようやく四女が乗った車が着いた。
前回は彼女がバンコクに出てきて間もなかったが、それからちょうど1年が過ぎている。
どんなに変わっているか不安だったけれど、髪も染めずにいることにちょっと安心。

それじゃ晩ご飯食べながら、と思いきや、ホテル内のレストランは軒並み営業時間を過ぎていて閉まっている。
バーのたぐいはやっているらしかったが、娘を連れて行く気にはならない。
周囲の人間が彼女のことを誤解してみることが明らかだから。
で、仕方なく部屋に戻って、大きな机を挟んで筆談によるインタビュー開始である。
低賃金で長時間勤務、休みもほとんど無い職場環境であるが、薬局は常に客でごったがえすことは無いわけで、仕事そのものは過酷というわけではなさそう。
彼氏はできたかと尋ねたら、「私はきれいじゃないから」と否定する。
これは親の贔屓目を差し引いても謙遜が過ぎる。
ま、性格がおとなしい上、親戚の家に同居しているので、男連中も誘いにくいのだろう。
といっても、彼女ももうすぐ22歳。
次の1年間がもっとも心配なのがこの娘であることは変わりないのである。

2012-01-06

次男

次男から電話がかかってきたのは、空港からホテルへ向かうバスの中にいるときだった。
友達の携帯電話を借りているとのこと。
彼はマハサラカムから就職でバンコクに出てきていて、事前に実家近くに住む従姉妹から連絡をつけてもらっていたのである。
いつホテルに着くかと言うので、間もなくだからホテルのロビーで会おうということにした。
ホテルにはすぐに着いたが、腰が痛いためすぐに部屋へは行かず、チェックインを済ませてそのままロビーで待つことにした。
次男の勤め先はチャオプラヤー川の反対側なので、先方のほうがかなり時間がかかるようである。
しばらくして待ちかねた次男がホテルに入ってきたが、これが何とも場違いなのだった。

実はこのしばらく前、このホテルの周辺で暴動があって、まだ周辺にはあちこちに焼け跡がある状態。
ホテルの中でも爆発があり、ようやく営業を再開して間もないときだった。
当然、海外からのセレブも多く宿泊するホテルのセキュリティは厳しく、入ってくる車も、歩いてくる人も、金属探知機でのチェックはもちろん、手荷物も全部開けて見せてからでないと通してもらえない。
いたる所に立っている警備員はもちろん、従業員が常に歩き回って周囲に気を配っている。
こちらはやましいところが無いはずなのに、変に疑われないよう、キョロキョロすることすら控えるようになっていた。
そこに現れた次男は、中学時代から100キロを越していたくらいで、日本にいたら相撲部屋以外就職口は無いだろうという巨漢である。
これが左右に友人とおぼしき同年代の少年を二人引き連れていて、三人が三人とも高級ホテルに不似合いなTシャツ・半ズボンにサンダル履きである。
街中で見かけても、腕に覚えの不良少年グループにしか見えないだろう。
手ぶらの上に宿泊客との待ち合わせだから通してくれたものの、もし紙袋でも提げていようものならどう扱われたことやら。
僕は彼が気の優しい子だとよく知っているし、その友達もおとなしいいい子達であることはすぐに分かった。
ただ、この三人を引き連れてホテル内を歩くのだけは少々キツかったものである。

2012-01-02

贅沢

年に一回の訪タイでは航空会社のマイレージもなかなか航空券に交換できるまでにはならない。
で、たいていは期限が来る前にホテルの宿泊券に交換することになる。
ところが、マイレージ・サービスで泊まれるのはわりとデラックスなホテルなのである。
これまではチェンマイやコンケーンで使っていたが、2010年、初めてバンコクで使ってみた。
バンコクでも老舗の一流ホテルである。

寝るだけには広すぎる部屋に大きすぎるベッド。
一人で一泊するだけなのに枕が8個もある。
いつもなら出歩いてばかりでホテルには寝に戻るだけなのだが、この時は腰を痛めていたので一歩も外出しなかった。
バンコクで働いている次男と四女との面会もホテルへ呼び寄せることにして、ホテルでのんびり過ごす。
食事に行くのも億劫なので、ちょっと高くつくけどミニバーのスナックとビールで一食済ませることにした。
高級ホテルゆえか、飲み物の値段表などは見当たらない。
ま、宿泊費がタダなんだから、ということで気にしないことにする。
驚いたのは、翌日のチェックアウトの時。
なんとミニバーの料金が、いつものバンコクでのホテル一泊分に相当する金額だったのである。

2011-12-02

消息不明

高校を卒業後バンコクで働いていた四女と連絡が取れない。
バンコク北部の薬局で店員として働いていたが、今年6月に会った時に使っていた電話番号が通じない。
洪水の被害の大きい地域なので、仕事はもちろん、住んでいるところも水没したはずである。
実家は東北のサコンナコン県なので、おそらく帰省して自宅待機ではなかろうかと思っていた。
電話が通じないのはプリペイドが切れたとかでよくあることだから、それほど心配もしていなかった。

先日、ウドンの知人がフェイスブックで寄こしたメッセージで、ウチの子たちのことを心配してくれていたので、実は何人か連絡が取れないのだと告げた。
調べてあげるよ、との言葉に甘え、四女の番号を教えたが、彼女が電話してもやはり不通であった。
そこで、四女の実家にいる母親とコンタクトしてもらうよう依頼していたのだが、驚いたことに実家にもこの2カ月連絡が無いというのである。

最後の連絡で、四女は正月に帰省すると言っていたそうだ。
おそらく1月のことではなく、4月のタイ正月をさすのだと思うが、それは定かではない。
もし実家のほうに連絡があったら、必ず僕のところにも知らせが来る、という段取りをつけてもらうことができた。
あとはこちらからできることは何もないので、ただ連絡を待つだけだ。

今回の洪水は確かに大勢の死者も出しているが、津波のようにいきなり襲ってくるものではなかったはず。
極端な話、もし死んでいれば逆に親元への連絡は速やかに行っただろうから、どこかで不便な暮らしを強いられてはいるかもしれないが、無事ではいるはずだと信じたい。
四女を含め、現在ウチの子は4人がバンコクとその周辺で暮らしている。
ほかの3人にいたっては、電話すら持っていなかったりで、連絡の手段が無い。
来年、直接実家を訪ねて安否を問うしかないのである。
全員の無事を確かめるまで、悩ましい日が続きそうである。

2011-11-21

恥の泥団子

タイの洪水ニュースの中で、首相も率先して川を浄化する泥団子を投げ入れている様子が映し出されていた。
いわゆるEMボールというやつで、有益な菌類を練りこんだ泥団子を川に投げ込めば、みるみる水質が浄化されるというものである。
そのために大勢のボランティアが団子作りに精を出しているとのこと。
国を守るためにどんなことでもやろうというその姿はまさに感動もので、見ていて涙が出そうなくらいであった。
ただ残念なことに、彼らの努力は何の成果も上げることは無いのである。

タイの知人がメールでこのEMボールの効果を尋ねてきた。
これはまったくの疑似科学であって、提唱者が言うような効果は全然期待できないこと。
そもそもその効能自体が非科学的で、成功例として挙げられている事例そのものがほとんど捏造といってもいいくらい胡散臭いこと。
タイで実行している人たちの行為には敬意を払うが、少なくとも首相はもっと別のことを考えるべきじゃないか。
などなどを恐る恐る告げたところ、タイでもチュラ大の教授だかが批判的意見を公表していると言っていた。
その知人もそういったルートから怪しいと思い始めていたので、僕の意見を素直に聞いてくれたが、それでもボランティアの作業者を説得して中止させるということは難しいのだと言う。

大災害に際して、さまざまな風説が流れることはどこの国でも同様。
中には無駄な努力や逆効果なんてのもあるだろうけど、混乱の中ではそれもある程度仕方がないと思う。
しかしこの件で悔しいのは、追い詰められたタイ人がこのインチキ団子に飛びついた理由として、これが日本で公害対策に用いられて大きな成果を挙げたからだと言われている点だ。

実は、日本ではこのインチキ団子を環境教育の一環として取り入れている学校まであるというのだ。
多くの子供たちが汚れた川をきれいにするという目的で、どっちかって言うと川を汚す行為を繰り返しているのである。
一方で、材料を売っている連中は大儲け。
世の科学者連中は、もっとこういった似非科学に厳しい態度を示さなければならないんじゃなかろうか?
次代を担う子供たちや、災害に苦しむ途上国の住民を騙くらかして、どれだけ彼ら環境ヤクザが儲けているのであろうか。
自分の家を後回しにしてまで首都の衛生環境を守ろうとしているバンコクのボランティアたちのことを思うと、同じ日本人として恥ずかしいかぎりなのである。

2011-10-21

捜索(その2)

親切にしてくれた恩人の名前がカタカナでしかわからないのでは礼状一つ出すこともできない。
しかし、学校名がわかっているので、学校を訪ねればなんとかなるかもしれない。
卒業していても卒業者名簿から割り出すことも可能だろう。
いずれその日が来ることを信じて、彼の名前を書いたメモはずっと大事に保存していた。
それでも、僕がチェンマイに滞在するのは、年に一度、せいぜい丸二日が精一杯である。
その間に訪ねなければならないところも多く、彼を探す時間が取れないまま、年月だけが過ぎていった。

ところが、技術の進歩が思わぬところから手掛かりを与えてくれるようになった。
インターネットとSNSの普及である。
Hi5やフェイスブックでタイの友人たちと交流しながら、機会があるたびに、僕は彼の名前を検索にかけていた。
タイ人は多くの場合SNSで本名登録をしている。
先日、英語綴りの彼の名字をフェイスブックに見つけた。
名前は異なっているが、顔写真には十数年前の面影がある、、、ような気がする。
さらに出身校や年齢もほぼ条件を満たしている。
本人でなくても兄弟か従兄くらいの可能性は高い。
そこでさっそく彼にメールを送ってみることにした。
「あなたは十数年前に僕を助けてくれた人ですか? それとも別人でしょうか?」

すぐに返ってきた返事で、彼が本人に間違いないことがわかった。
改名する前の名前を僕が覚えていたことを喜んでくれて、さっそくコメントのやり取りをした。
毎年訪タイしていることを言うと、今度チェンマイに来たら行きつけの寺院をぜひ案内したいとまで言ってくれた。
お寺にあまり関心は無いが、電話番号も教えてもらったので、待ち合わせも簡単だろう。
長年の宿題が簡単に解決し、非常に気持ち良かった。
もっとも、彼のほうは自分が日本人を道案内したことなど、まったく記憶していなかったらしい。
それはつまり、彼にとってあれが特別な行為ではなかったということなのだと思う。
「忘れっぽいって、友達からもよくからかわれるんです」という彼の人柄をますます好きになり、タイにまた素敵な友人ができたことが何より嬉しい。

ついでに彼の友人リストの中から、あのときの彼女と思われる人も見つけてしまった。
今どういう関係なのか、それは来年彼に会ったときに聞いてやろうと思っている。

2011-10-20

捜索(その1)

すでに15年近く前のこと。
ランプーンの次女を訪ねたついでに、当時チェンマイにあったプランの現地事務所を表敬訪問することにした。
乾期だったのでバイクを借り、日本のプラン事務局から聞いていた住所を探して、市街から北へ向けて走っていった。
当時はグーグルマップなど無く、手に入る紙地図も詳細なのは観光地である市街部のみ。
市街を出てから何キロか行ったところで、さらに先になるのか、あるいは行き過ぎてしまったかと判らなくなってしまった。
最初からその辺りで誰かに尋ねることは想定内だったので、スピードを落として暇そうな人を物色してみる。
炎天下で歩いている人を引きとめるのも悪いな、とか思っているとバス停のベンチに座っているアベックを発見。
少し行き過ぎたところにバイクを停めて彼らのほうを振り返ると、男性のほうが立ち上がって、こちらに向かって走ってきた。
僕のところまで来ると、彼のほうから声をかけてきた。

「何かお困りですか?」
きょろきょろしながら走っていたバイクが、自分たちのほうを見てからいきなり停まったので、おそらく道に迷ったのだろうと推察し、自分のほうから近付いてくれたのだった。
プランの住所を書いたメモを見せたが、残念ながら彼もその住所がどの方向かは知らないとのこと。
メモには事務所の電話番号も書いてあったので、そこへ電話をかけてみたらということになった。
まだ携帯電話が普及する以前のことである。
実はタイのテレホンカードも持ってはいたのだが、郊外の道路沿いにそうそう公衆電話があるわけではない。
彼は自分が電話の場所を知っているからここで待ってろと言い、僕と連れの彼女を残して走っていってしまった。
すぐ近くに電話があるのだろうと思っていたが、これがなかなか帰ってこない。
随分経ってから戻ってきた彼が言うには、事務所の場所はまだ先で、プランのスタッフが道路まで出てくれることになったとのこと。
ただ、どのくらい先かってことが要領を得ない。
なにしろタイ人は地図が苦手で、距離感覚も非常に大雑把なのである。
その上、僕との会話では言葉の壁も大きく立ちはだかる。
で、彼が提案したのが、僕のバイクを彼が運転、後ろに僕を乗せて待ち合わせの場所まで行くということ。
恐縮して一度は遠慮はしてみたものの、行った先でまた迷子になれば、今度は待っているプランのスタッフに迷惑をかけることになる。
ここは彼の提案に甘えるしかない、というわけで、とうとう道案内のみならず運転手までさせてしまうことになった。

思っていたより長い距離を北へ走っったものの、彼のおかげであっさりとプランのスタッフに会うことができた。
ひとしきりお礼を言い、それではさっきの場所まで今度は僕が送って行くよと告げたら、彼はその必要は無いと言う。
さっきの彼女が一足先に自宅に戻り、彼女の親が車を出してここまで迎えに来てくれることになっているというのである。
そうこうしているうちに、本当に乗用車がやってきた。
運転しているのは父親で、後部座席には彼女が母親と一緒に乗っている。
ただ通りがかりに道を尋ねただけなのに、どこまでこの人たちは手間をかけて面倒を見てくれるのだろうか。
タイ人の親切心には慣れていたはずだが、それでもこの出来事は衝撃だった。

後でお礼の手紙を出したいと思い、手帳に名前と住所を書いてもらって、持っていたテレホンカードをお礼に渡して彼らと別れた。
後であらためて手帳を見てみたら、そこにはなんと彼の名前がカタカナで書かれていて、住所の記載は無かった。
日本語が書けるってのが自慢だったんだろうけど、これでは礼状を出すなんてできないじゃないか!
(続く)

2011-10-12

帰省

2010年6月の訪タイ時、ランプーンの次女の実家に着くと、次女は夫と一緒に帰省していた。
次女の暮らすスコータイからの距離は、東京を起点としたら浜松辺りまで行くくらい。
年に数回帰省するくらいは簡単なものだろうと思っていたが、聞いてみてびっくり。
次女と夫はバイクの二人乗りでこの距離を走ってきたというのである。
もちろん、大型バイクではない。
スポーティなデザインにはなっているが、ベースはホンダのスーパーカブ。
排気量100cc程度で二人乗り仕様にこそなっているが、基本は街乗りであって、長距離ツーリング向きではない。
しかも高速道路ではなく、まっ黒排気ガスのバスやダンプと並走しながらだ。
「なんてことするんだ、ばか野郎。バスを使えばいいだろう」
道中で転倒でもされてたらと想像するとゾッとする。
毎年多くのタイ人が二輪の事故で簡単に死んでしまっているのだ。
今回は僕の訪問に合わせての帰省だったから、余計に責任も感じるのである。
もっとも、当人たちは特別無茶をしたという意識は無いらしく、「タイ人はバイクが好きだから」なんてことを言ってヘラヘラしてる。

その日は、僕の車で次女一家とチェンマイの動物園へ行った。
園内の水族館を見終える頃には皆歩き疲れていて、一瞬、次女がほかのメンバーと離れて一人だけでベンチに座ったことがあった。
そのタイミングを逃さず、僕は次女の前に跪き、ずっと気になっていたことを小さな声で尋ねてみた。
「立ち入ったことを聞くけど、お前、ひょっとしてお腹に子供がいたりはしないか?」
若い新婚夫婦だから、もしかしたらと思っていたのである。
次女の返事は、「わからない。でもいるかも知れない」というものだった。
つまり、兆候こそないが、可能性はゼロではないと。
それを聞いては日本の父ちゃん、もはやバイクの後部シートでスコータイまで帰らせるなんて論外である。
「バス代は出してやるからお前は絶対にバスで帰れ。旦那はバイクで一人帰らせろ。バスターミナルまでが遠いんだったら僕が送っていってやる」

そして丸一年後、再びランプーンの実家を訪問した時、そこに次女の姿は無かった。
今回は僕に会うために帰省することができないと、謝罪の手紙を出したというのだが、ちょうど日本を出たころに行き違いで届いていたことは後から知ったのである。
「どうして帰れなかったの?」とがっかりして尋ねた僕に次女の家族から返ってきたのは、彼女は今スコータイで育児中だからという答えだった。
うーん、逆算すれば一年前のあの水族館での会話、まるっきり見当外れの取り越し苦労というわけではなかったようなのである。

2011-10-08

失態(その2)

乗るはずだった飛行機に置いていかれるという、最悪の失敗をしてしまった。
実は長年視力だけが自慢で、以前ならカウンターのプレートは遠くからでも読めたのである。
ちょうどこの旅のころから遠くが見にくくなっていたのだが、目から入力される情報量が低下していたことに迂闊にも気づいていなかった。
チェンマイ以上に外国人が向かうプーケット行きのゲートだったことも災いした。
タイ人比率の高い東北行きの便だったりすれば、待合スペースの雰囲気ですぐにわかったはずだ。

状況としては非常に困ったことになっているのであるが、実は内心、それほど焦ってはいなかった。
不幸中の幸いで、チェンマイ行きはタイの国内線で最も便数が多いのである。
それほど待つこともなく、次のチェンマイ便が出るはずだ。
カウンターのスタッフも、無線で簡単に連絡を取るや、「大丈夫ですから、安心してここで待っていてください」という。
そして、すぐさま次の便のチケットをその場でプリントしてくれて、その便のゲートまで案内してくれた。
もちろん、追加料金も無しである。
預け荷物についても連絡してくれるとのこと。
この日はチェンマイのホテルにチェックインするだけだったので、夕方の到着が1時間半遅れただけで済んだ。

そもそも搭乗券に印刷されていたゲート番号のほうが間違っていたのだから、空港で迷子になって乗りそびれるような連中とは違うぞ、なんて言い訳は通用しない。
確かに先方にも重大なミスがあったわけであるが、そもそも表示プレートの確認くらいはするべきだったのである。
タイトな旅程では時間こそが最も大切なのだから、人のせいにして済ませられるものではないのだ。
なにより、搭乗予定だった便の乗員乗客にまで多大な迷惑をかけたことになる。
確認する時間はあったのにそれを怠ったわけで、これは大いに反省。

そしてちょうど一年後、たまたま、まったく同じルートをたどることになった。
二度と同じミスをしないようにと自分に言い聞かせながら、受け取ったチケットを見て驚いた。
今度は乗り継ぎゲートの欄が空欄になっていたのである!
下手にゲート番号を書いておいて、万一変更になったりしたときに慌てさせるより、乗り換え空港に着いてから自分で探させれば、そもそも間違えようがないということか。
スワンナブーム空港では、掲示板の表示を確かめてからゲートに向かい、まずカウンターの表示と便名を確かめてから待ち合いのベンチに腰掛けた。
なるほど、これがミスを防ぐための対策としておこなわれていたのであれば、完璧な対応と言わざるを得ない。

2011-10-05

失態(その1)

2010年度訪タイの最大のミスは、コンケーンからチェンマイへ向かう途中で起きた。
バンコクで飛行機を乗り換えることになっていて、コンケーン空港で2便分の搭乗券を受け取る。
預け荷物はバンコクで自動的にチェンマイ行きの飛行機に積み替えてもらえる。

バンコクのスワンナブーム空港は、かつてのドンムアン空港に比べて、とにかく長い距離を歩かされ。
それでも、もう何度も利用しているので、迷うこともなく2枚目の搭乗券に書かれてあるゲートに到着。
すでに多くの人が待合スペースの椅子を埋めていた。
どうやら日本からの便と接続しているらしく、大半が日本人である。
チェンマイは日本人好みの観光地なので、バンコク‐チェンマイ便が日本人だらけになるのはよくあること。
やがて搭乗時刻になり、離陸時刻も迫ってきたが、ゲートはまだ開かない。
飛行機の遅れにはいろいろな理由があるので、いちいちイラついてもしかたがない。
ただ黙って開門を待つだけである。
そうこうしていると、構内放送が日本人らしき乗客の名前を呼んでいるのが聞こえた。
チェックインしているのになぜか搭乗してこない乗客を急かせる、あの恥ずかしい放送である。
なんとなく、その名前が自分の名前に似ていたなあ、なんて思いながら、再び読んでいた文庫に目を戻す。
しかし何やら不安な気持ちがゆっくりと湧き上がり、読書に集中できない。
念のためにと周囲の人をかき分けてゲートのカウンターへ行ってみると、なんと! そこにはチェンマイではなくプーケットと書かれているではないか。
(何で? 何で? いつの間にプーケットのカウンターに変わった?)
周りの乗客は動いていない、ということは彼らは全員最初からプーケット行きの飛行機を待っていたのである。
つまり、チェンマイ行きはちゃんと定時に別のゲートから乗客を乗せていたということ。
さっきの間抜けな呼び出され日本人は、やっぱり自分のことだったのである!
とりあえずこのゲートのスタッフに確認してもらうと、チェンマイ便はたった今、飛び立ったところだと言われてしまった。
手元のチケットに書かれてあったゲート番号が間違っていたのだ。
預け荷物だけがキチンと飛行機を乗り継いで、肝心の持ち主のほうは置いてきぼりをくらってしまったのであった。
(続く)

2011-09-23

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(12)

【BOPビジネス】
昨今経済界で話題のBOPビジネス。
よく紹介される事例に、途上国で石鹸を売ってみたら、衛生環境が改善されて企業も儲かった、という話がある。
新しい市場開拓が途上国の生活改善にも役立つ、Win-Winなビジネスだというのである。
なるほど、小さな石鹸ひとつでも、何億人という石鹸を使ったことのない層が新たに消費者となれば、企業は大儲けだ。
それによって、途上国の衛生問題が相当改善されることも間違いない。
この方面で出遅れたといわれている日本も、今になって政府も積極的にBOPビジネスへの取り組みを後押ししだしたところだ。

これまで先進国の企業が見向きもしなかった貧困層を消費者とみる動きが出てきたのは、グラミン銀行の成功があったからだという。
つまり、あらゆるBOPビジネスの目指すお手本がユヌス氏なのである。
BOPビジネスも、都合の良い一面だけを宣伝して万能のモデルのように言うあたり、なるほどグラミン起源だと思い知らされる。

当事者の立場で考えてみよう。
八方ふさがりの日本が途上国を新市場とするとき、本音では相手のことなど微塵も考えてなどいない。
新しいカモを見つけた、というのが最も正確なのではないか。

一方、途上国の貧困層にしてみれば、これまで無ければ無いでやってこれたことが、強力なコマーシャルと販売戦略によって、あれも欲しい、これも欲しいという、物欲優先の生活に変わっていくということである。
石鹸で済んでいるうちはいい。
しかし、日本の企業がそれでとどまるか?
やがて、テレビを買うために借金し、冷蔵庫のために娘を売る、なんてことがあちこちで起こり始めるのである。
BOPビジネスが、本当にWin-Winで成長していくためには、あと一つ、大事な要件が抜けているのである。
それは、消費社会に変貌していくためには、相応な現金収入が必要だということだ。
貧困層の人たちも、まず石鹸が買えるだけの収入を得なければならない。
やがて、テレビや冷蔵庫が買えるだけの収入を得なければならない。
そうしてはじめて、それらを買うことが「生活の改善」につながるのである。
収入が無いまま、モノだけを目の前にぶら下げられても困るのである。
一見豊かになったように見える生活の裏で、常に大きな借金をかかえ、日々返済のために働き続けることになる。

さらに言えば、貧困層の生活改善に役立つというモノ(たとえば石鹸)だって、何も外国企業の進出に頼る必要などないのである。
国内に自己資本の石鹸工場ができ、労使ともに自国民で雇用を確保することが本来の理想なのではないか?
BOPビジネスは、その芽さえ摘んでしまう。
ようするに、BOPビジネスとは、先進国による経済侵略であり、貧困層からもさらにまきあげようという、血も涙もない戦略なのだ。

実は、国民の多くがどん底の貧困層にありながら、ごく短期間で大量消費かつ大量生産国へと変貌していった国がある。
言わずと知れたニッポンである。
外国企業のカモにならず、国民が豊かになることで、生活改善商品をどんどん購入できるようにしていくこと、それをあっというまに成し遂げた奇跡の戦略は、当時「国民所得倍増計画」と呼ばれた。
まずは儲けることが目的だったのだ。
当面使い道が無ければしっかり貯金もした。
そういう状況にあったからこそ、国民の大部分がテレビとかマイカーといった高額商品購入をめざし、そして実現していけたのである。

つまり、ここで必要なのは外国企業の思惑などではなく、真に国民のためになる強力な政治力だということだ。
小作農が起業するためのプチ融資なんかではなく、農民のままでいてもそれなりに収入を得られるようにすることだ。
それはたとえば、日本がかつておこなった「農地改革」のような政策なのである。
ユヌス氏が政治家になっていたとして、果たしてこういった真逆の政治がおこなえたかどうか、非常に怪しいものなのである。

2011-09-14

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(11)

【政治】
学者でありながら始めたビジネスで伝説的な大成功を収めたユヌス氏は、後に自ら政党を立ち上げる。
この計画は失敗し、現首相との対立が激化する。
日本ではもっぱら、無能な政治家が嫉妬心と保身のために目の上のタンコブを叩いている、という構図で語られることが多いようだ。
しかし、国の貧困問題に最大の貢献をしている(と海外でも評されている)人物が、政権与党の党首兼首相から非難・攻撃されるというのはどういうことなのか?

ここで思い出されるのがタイのタクシン元首相である。
彼もまた、警察官時代に始めた通信ビジネスで大成功し、後に新政党を率いて政界へ進出した。
タクシン氏もまた貧困解消に前例のない熱意でもって取り組み、これまでないがしろにされてきた地方の農民の支持を得た。
ユヌス氏にせよ、タクシン氏にせよ、貧しい人たちへの同情が無かったとは言わない。
しかし、取った行動のみを冷静に見れば、その目的が私利私欲のためだったと取られても仕方がないようなことをやってしまっている。

財を成した人物がさらにその富を増やそうとしたとき、もっとも邪魔になるのが「政治」である。
その障壁を取り除くには、商人と悪代官よろしく結託するか、さもなくば自分自身が政治家になるしかない。
選挙とは民主主義の象徴であるが、貧困対策は実は非常に巧妙な集票工作なのである。
現在、どの国を見ても選挙は一人一票である。
これは有権者にとって厳密に公平なこと、と思われがちであるが、候補者にとっては逆に公平とはなっていないのである。
簡単に言えば、貧乏人から票を集めるのは安くつく、ということである。
たとえばタクシン氏は貧者の医療費を30バーツ均一にした。
それは医療現場からは反発を受けたが、医者の数より医療費に困っている患者のほうが圧倒的に数が多いわけだ。
その票をもとに政権をとったタクシン氏は、さまざまな法の裏を突くやりかたで、さらに巨大な富を築いた。
さすがに、貧困問題と取り組みながら、自身が国一番のお金持ちになりあがる、ってのは言い訳がきかないだろう。

政治の本来の目的は富の再分配にある、といっても過言ではない。
公共事業も教育も福祉も、すべてはそのための手段なのである。
したがって、不当に貧しい人があれば、不当に儲けた人間から富の一部が還元されなければならない。
そのためにいったん国に預けるのが税金というものなのだ。
「儲けるな」とは言わないが、誰よりも儲けている政治家というのは、存在自体が矛盾を含む、信用ならざる人間なのである。

2011-09-10

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(10)

【融資の対象】
グラミン銀行は貧しい人ほど歓迎する、というのがカンバンである。
女性であれ、障害者であれ、前職が乞食であっても積極的に融資をおこなう。
これをして、グラミン銀行が弱者の自立を積極的に支援していると普通は思ってしまう。
しかし、ここにも問題はある。

そもそもユヌス氏が女性ばかりに金を貸すのは、女性のほうが返済率が高いからだと自身述べている。
最初は男性にも融資したが、それでは商売にならなかったというわけだ。
つまり、グラミン銀行の融資は、相手が弱者だからということでは選ばれない。
起業家としてのやる気と資質が問題になるのである。
だから、「うまくやっていける者」であるなら、女性であっても乞食であっても歓迎する、というのが正しい解釈となる。
これは裏を返せば、うまくやっていけない者には金は貸せない、ということだ。

一見、最底辺の人たちを救済しているように見えて、実は結構キビシイのがグラミン銀行の融資である。
「機会を与えるから、あとは自力でここまで登ってきなさい」と資本主義社会での成功者は言う。
だが、誰もが成功はしないのが資本主義である。
ユヌス氏はバングラデシュの雇われ人は搾取されるだけだから自営になるのが一番簡単なのだと言うが、「1億総社長サン」はいくらなんでもあり得ない。
当然のことだが、大きな責任を負うより、人のもとで働くほうが性に合ってるって人も多いのだ。
食うに困らなければそれでいい、金が余ればギャンブルでもやろか、というダメ親父だっているのだ。
そんな人たちでも、それなりの労働にはそれに見合った報酬が得られるようにすることこそが大切なのではないだろうか?

パナソニックの創業者は、どんなに経営が厳しい時でも、末端の従業員、系列の販売店員、さらにはその家族にいたるまで、ダメ社員もいることを許容したうえで、そのすべての生活を守ろうとしたという。
日本式終身雇用制にも問題点はあろうが、被雇用者であっても生きがいを持って働ける社会なら生産性も上がり、生活も向上するのではないか。
日本の発展はそうしてなされてきたはずだし、「1億総中流」という奇跡的成功例を示したのである。

一方グラミン銀行は、社長サンになれた人だけ取り上げてサクセスストーリーを宣伝する。
しかし、それは取り残された多くの人々については触れない、一面だけの物語なのである。

2011-09-07

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(9)

【ノーベル賞】
ユヌス氏の日本での高評価は、彼とグラミン銀行のノーベル賞受賞で確定的なものになったようだ。
世界が認めているのだから間違いない、というわけである。

しかし、そもそもノーベル平和賞というものは、ほかのノーベル賞と違って、対象者の真価を保証するものではないのである。
ベトナム戦争を支援し、裏では核持ち込みも容認していながら、自国民をなだめるためにでっち上げた建前「非核三原則」でちゃっかり平和賞を貰った某国の元首相とか、演説に核兵器削減を盛り込んだだけで、相変わらず世界中でドンパチを続けている某国の現大統領とか、受賞と実態が乖離してしまっているのがノーベル平和賞なのである。

科学関係のノーベル賞は、業績が「正しかった」と認められるだけでなく、そこから後の発展、応用まで含めて、真に人類に貢献したと認められて初めて受賞に至る。
したがって、引退後に受賞することもしばしば、場合によっては故人になってて受賞を逃すことも稀ではない。
ところが、平和賞に限っては、政治的な力関係や外国政府の思惑、時には気に入らない国への嫌がらせのために、その国の政治犯を受賞させたりと、名前とは裏腹にドロドロの陰謀渦巻く賞なのである。
無論、選考委員には自負もプライドもあり、自ら信じるところに従って、何ら良心に恥じることなく受賞者を選んでいるはずだ。
しかし、一方で、過去の選考を恥じたり後悔したりということも少なくないと聞く。
ノーベル平和賞委員会が自ら「最大の過ちだった」と懺悔したのは我らが佐藤栄作氏の受賞に関してだった。
ユヌス氏の受賞も後にキズモノとならなければ良いのだが。

ちなみに、委員会に推薦状を出すなど、ユヌス氏の受賞に尽力したのはアメリカの歴代大統領。
本来、貧困の撲滅には、程度の問題はともかく、社会主義、共産主義的手法が必須と考えられていたわけで、ユヌス氏の言う「資本主義こそが貧困を無くす」という主張はアメリカにとってこんなオイシイことは無いわけだ。
なんとかこの主張を世界に認めさせたいと考えるのは当然である。
これもまた、「アメリカが正義をおこなうのではない、アメリカがおこなうことが正義なのだ」という独善国家の所業の一例である。

2011-09-03

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(8)

【開発の歴史】
ユヌス氏が、当初、援助ではバングラデシュから貧困は無くならないと言ったことは間違っていない。
バングラデシュが独立した1971年から1983年のグラミン銀行設立までの12年間、この国は世界中から莫大な金額の援助を受けてきた。
しかもその半分以上が贈与だった。
にもかかわらず、その12年間でバングラデシュから貧困は無くならなかった。
原因は、災害やら腐敗した政治やらいろいろあるが、援助する側にも多くの悪い点があったからだ。
なにしろ、援助に関わっていたドイツ人が「死を招く援助」なる本を著して、バングラデシュのためには即刻援助を中止すべし、と訴えたのがちょうどグラミン銀行発足直後のころである。
日本の援助もひどいもので、その詳細をここに書くことは省くが、納税者の一人として、穴があったら担当者を埋めてやりたいくらいなものである。

そんななか、アメリカ資本主義に帰依したユヌス氏が、貧困から抜け出るには起業して自営業者になることが一番、と考えたのも無理はない。
「援助では彼らを助けることができない」と言うときの「援助」とは、この頃の「ダメダメ援助」である。

さて、海外から流れ込む莫大な援助金を否定し、融資にまわしてこそ貧しい人たちを豊かにできるとユヌス氏が宣言してから、28年が過ぎた。
バングラデシュは今日、貧困を過去のものとしたであろうか?
ユヌス氏は、孫の世代には貧困は博物館で学ぶものになっているはずだと発言している。
すでに折り返し点である子の世代にはなっていると思うが、相変わらず、バングラデシュは世界の最貧国のままである。
グラミン銀行が、自身言うように有効な手段であるなら、とっくにバングラデシュは金持ちばかりになっていなければならないはずだ。
資源のない日本が、戦争に負け、多くの働き手を亡くし、焼け野原から出発した1945年から、19年後にはオリンピック、25年後には万国博覧会を開催しているのである。

あえてここで言いたい。
そんなご立派なグラミン銀行が世界中から支持と支援を受けておこなった28年間の開発実験で、いったいどれだけのことを成し遂げてきたのか?
確かに28年前よりは豊かになったし、貧しい人たちも減ってはきた。
しかし、その限定的な成果すらグラミン銀行の手柄というわけではない。
なぜなら、この28年の間には、政治も改善され、海外からの援助も見直されてきたのだから。

バングラデシュへの海外からの援助金は、即刻中止どころか、年々増加し続けた。
当然、指摘され始めた悪しきプロジェクトは見直され、より有効な援助手段が模索された。
バングラデシュの僅かな発展には、グラミン銀行以上に、そうした滞ることなく続けられてきた海外からの援助が、それはそれなりに役立っていたはずなのだ。

2011-09-02

グラミン銀行は貧困救済の特効薬か?(7)

【逆転の理念】
そもそもグラミン銀行を持ち上げる人たちは、途上国への援助活動に対して人並み以上に関心を持っている人たちである。
そしてこれまでの援助活動が決して完全なものでないことをよく承知している。
だからこそ、ユヌス氏の思想に触れたとき、逆転の発想に「目からウロコが落ちた」と感じ、心酔してしまうわけだ。
僕が最も危惧するのはこの部分で、グラミン銀行のやり方を讃えるあまり、これまでの方法を否定したり、軽視してしまうことが心配なのだ。

ユヌス氏は次のように言う。
「施しは相手の自尊心・自立心を奪ってしまう。融資は責任感と計画性を育てる」
これを聞いて多くの人は感銘を受け、ユヌス信者になってしまうのである。
そのとき実は、「目にウロコが飛び込んで」しまったことに気づかずに。

社会の仕組みによって最底辺の生活を強いられながら、それでも頑張って生きてきた人々の立場になって考えてもらいたい。
不公平なことに、生まれが違うだけで裕福な連中が世の中にはたくさんいるのである。
この溝は超えられないと思っていたある日、どこかの誰かがやってきて、まとまったお金を無条件で与えてくれたとする。
「この金でやりたい仕事を始めてしっかり儲けなさい。あとはあなたの才覚次第だ」と。
さて、この貧しいバングラデシュ人は、金を恵まれたことで自尊心を傷つけられたか?
その金で遊んで暮らすことを覚え、自立心を失っただろうか?

その金が貸してもらえたものであろうと、貰ったものであろうと、天から降りてきた唯一のチャンスであるなら、彼はその蜘蛛の糸に最大限の感謝をして、自らの最善を尽くすはずだと僕は信じる。
たとえ失敗しても、それは貰った金だから失敗したんじゃない。
なんらかのほかの条件が悪かった結果だ。
逆に成功するときは借りた金でも貰った金でも成功する。

実は、グラミン銀行の融資と比較できる「無条件で現金を与えて、あとは自由に使わせる」というタイプの活動がほとんど見られないことが、グラミンの理念を絶対視してしまう原因なのだ。
では、返済を前提としたグラミン方式の融資は間違っているのかというと、そうではない。
返済が行われることで、この融資は永久に繰り返すことが可能なのだ。
すなわち、一回きりで終わるのではなく、何度でも資金提供を続けていくことにこそグラミン銀行の意義があるのである。
それなのに、ユヌス信者は、「金を与えることは相手をダメにするんだ」とトンチンカンな方向へ理解してしまうのである。