訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2012-11-30

ツナミ

2011年の訪タイは特別だった。
震災から原発事故と続いた未曾有の被害が海外でも報道され続けていたから。
タイ人から日本はどうだったと聞かれたら答えようと思って用意したジョークがあった。
「いやもう、ツナミに流されちゃって大変。必死で泳いで泳いで、、、気が付いたらタイまで流れ着いちゃってたよ」
被災地のことを思うと顰蹙もののブラックなジョークだが、外国人に安心してもらうためにはあの大災害も笑い飛ばすしかないと考えてのことだった。
プーウィエンの友人宅の近くを通りかかったとき、時間が無かったため立ち寄ることを諦めて、子供たちの集落へ向かった。
学校の終業時刻に間に合わせたかったのである。
2件の面会を終えコンケーンへ帰る際に、ちょっと道を間違えてしまったため、再びその友人宅の前を通ることになったので、じゃあ、ちょっと寄ってみるか、と覗いたところ、僕を見た先方の驚くこと!
日本の震災報道を見て、僕の安否をかなり気にしてくれてたらしい。
彼の母親も飛び出してきて、僕の手を握って飛び跳ねながら喜んでくれた。
「いやあ、実はツナミに流さ、、、」
「死んだかと思ってたよぉ! 家はどう? 家族は無事? 連絡する手段もないし、テレビではすごい映像を何度も放送してたんだよ。どうしていいかわからなくてずっと心配してたんだから!」
こちらの言うことなんか何にも聞かないで、一方的にまくしたてるので、仕込んだジョークは最後まで言わせてもらえず空振り。
何度もお金を出し合って、募金もしてくれたのだという。
この気持ちがすごく嬉しい。
もし、今年に限って彼を訪ねなかったら、さらに一年、どれほど心配かけてしまったことか。
どうして通いなれた道を間違えてしまったか、わかったような気がした。

2012-08-30

土産はカシオ(2)

カセサート大学構内のコンビニで五女と待ち合わせる。
長いこと待たされたところへ作業服のまま現れた彼女は、今実験の最中で、すぐまた戻らなければいけないのだと言う。
ゆっくり食事もできないというわけ。
仕方が無いので、さっそく今年の学費と土産を渡すことにする。

「ほら、これが欲しかったんだろ?」
もったいぶって手渡したのはカードサイズの百円電卓。
あっけにとられた表情で彼女が小さくつぶやいた一言は「..違う」。
「えっ、何? 電卓が欲しいって言ってただろ」
「fx-5800Pだと言いました」
「だからこれだろ」
百円電卓を彼女からひったくって開いて見せると、紙パッケージの内側にボールペンでわざと下手くそに「fx-5800P-N」と書いてある。
ここでからかわれたんだと気づきそうなものだが、恐る恐る彼女が言ったのは「でも、、Nはつかないんです」。
(いや、突っ込むのはそこじゃないだろ)
この「-N」は日本で買った商品についてた枝番で、日本語版ということなのか、はたまたマイナーチェンジ版なのか、実は今でもわかっていない。
ホンモノのパッケージの表示をそのまま書き写しただけなので、タイで販売されているものには付いていないのかもしれない。

「とにかく、お前が欲しいって言うから買ってきたんだよ、何が不満なの?」
五女がいろいろ説明しようとするが、言葉がよく判らないふりをして、コミュニケーションを遮断。
どうやら期待していた物はここに無いようだし、父さんはどんどん不機嫌になるし、言葉が通じないからうまく説明もできないし、、、。
で、ついに諦めた彼女は百円電卓を胸の前に押し頂いて一言、「ありがとう、、ございます」。

礼を言いながらも失意の表情を隠しきれない五女に勝利を確信したので、ここらで許してやることにする。
「そうそう、もう一つお土産があったんだよ」
バッグから取り出したのは、今度こそホンモノのfx-5800P。
何が起きてるかわからないって顔の彼女に、ウェブから英語版のマニュアルをダウンロードする方法を教え、百円電卓もオマケに押し付ける。
「あと一年、卒業までガンバレっ! 来年はバンコクで会おうな」
ようやく笑顔になった彼女と別れ、ドッキリ大成功に満足してその夜の宿へと向かうのであった。

土産はカシオ(1)

訪タイ前に、大学に通っている五女とチャットしたときのこと。
土産は何がいいかと聞くと、関数電卓が欲しいという。
関数電卓も最近は千円前後で買えるものがある。
「いいよ」って返事したら、すかさず「カシオのfx-5800P(笑)」ときた。
調べてみたら7千円以上する、関数電卓の中でもプログラム可能な最高級機ということでびっくりしてしまった。
(笑)とあるように、言ってみただけなのだろうが、すぐに機種名が出るあたり、本当にこれが欲しいと思っていたのは確からしい。
考えてみれば、国立大学の工学部に通っているのだから、関数電卓のひとつくらいは必需品ともいえる。
かなり予算オーバーではあるが、ここは清水の舞台から飛び降りてやろうか、と決心。
「しっかり勉強すると約束できるか?」
「はい、します!」
というわけで、さっそくアマゾンに5800Pを注文。
しかし、こんな高価な物をあっさり渡すわけにはいかない。
五女にはそれなりの対価を払わせてやる。
そこで、以前何かの記念品としてもらったカードサイズの百円電卓も持っていくことにした。
(続く)

2012-08-18

女子寮

電話連絡ができないまま、前日の夜にメールを1本送ったっきりで、未明にシーサケートを出発し、モーの通うロイエットの大学に向かった。
メールで伝えた場所につくと、大勢の学生たちが前を通り過ぎていくものの、肝心のモーは現れない。
やはりメールを読んではいないらしい。
しばらく待って、通りすがりの学生に寮の場所を尋ねてみる。
敷地の外れにある学生寮はすぐにわかった。
手前が男子寮、奥の突き当りが女子寮らしい。
車を置いて、女子寮の入り口前に立ち、出てくる女の子を一人ひとりチェック。
この段階でかなりアヤしいので、通りかかった職員らしい人に事情を説明すると、入り口脇のソファに座って待てばいいと言ってくれた。
その後もモーは出て来ないので、どうやらすでに教室に行っているらしいと結論。
彼女の名前は? 電話は? と聞いてはくれるものの、電話帳が無いんだからフルネームも電話番号もわからない。
インターネットが使えれば、彼女のプロフィールと顔写真を見てもらえるんだけど、と伝えたら、寮の前のコンピュータ室を開けてくれた。
放課後、学生たちがネットサーフィンに使うスペースらしい。
早速PCを起動するも、なかなかネットに繋がらないのは、回線がきわめて遅いからだそうだ。
イライラしながらPCを操作していると、後ろから名前を呼ばれた気がした。
振り返ってみると制服姿のモーが立っている。
どうやら、後から教室に着いた同級生に、寮の前の騒動を聞いて引き返してきたらしい。
挨拶もそこそこに、
「時間が無いんだろ?」
「はい」
「じゃ、1分だけっ!」
車に走って土産の雑誌を取ってきて押し付ける。
「じゃあ、急いで戻って。勉強しっかり。来年、また来るからね」
友人のバイクの後ろに乗って校舎に向かう彼女を見送って、一息つく。
一瞬ことばを交わしただけだったが、これで一件クリア。
普段からチャットしてるので特に話さなければならないこともなく、面会時間最短記録を更新して、いよいよサコンナコンへ向かう。

2012-08-05

米国人

娘の通っていたシーサケートの小学校へ行ったときのこと。
ひとりの背の高いアメリカ人青年を紹介された。
彼は一年前に現れて、約半年、この学校でボランティアとして英語を教えていたそうな。
その後、さらに半年かけてタイ国内を旅してまわり、いよいよ帰国を目前にして、再びこの学校へ立ち寄ったのだという。
身長が半分くらいしかない子供たちに交じってサッカーを始めたが、子供らがとても慕っているらしいことがよくわかった。
英語圏の人間は世界のどこへ行っても言葉で困ることはないし、英語を話してるってだけで子供たちのためになってる。
それに比べりゃ、日本からの訪問者ってのは、めんどくさいだけなんだろうなあ。
この点だけは本当にうらやましい

2012-08-02

失業者たち

シーサケートには撤退したプランの事務所がある。
空き家になってるか、それとも新しい住人がいるか、単純に好奇心からちょっと立ち寄ってみることにした。
驚いたことに、プランの看板がまだ出ていて、中には職員もいる。
中に入ってみると顔なじみの職員もいたが、現在撤去のための作業中とのこと。
最後の最後で「今までお世話になりました」って伝えられたのは良かったけれど、やはり心配なのは彼らの行く末。
「これからどうするの」と尋ねると、「失業だからね」「田舎に帰るよ」などなど、連中は笑いながら言うけど、聞いてるこっちは笑えない。
日本など、援助する側の国の職員は、地球上に援助を必要とする地域がある限り失業の心配は無い。
しかし、活動国の現地採用職員にとって、「活動が実を結ぶ」ことが自らの失業に直結するのである。
一流大学を出て、英語も堪能で、外国人をパートナーに仕事をこなしてきた優秀な人材でも、その地域での活動が終了すれば、職場そのものが無くなるのだ。
もちろん、他の活動地域や本部への異動なども選択肢として無いわけではない。
家族がいなければ他国で活動を続けることもできるかもしれない。
それでも大半の職員は退職を選ばざるを得ないのである。
地域の生活水準を引き上げてきたことで自分が失業するという矛盾。
せめてプランで働いてきたことが今後の彼らの仕事にもプラスになってくれれば、と願わずにはいられない

2012-07-26

忘れ物

2011年の訪チャイで最大のミスは携帯電話を忘れたことだった。

今や公衆電話もほとんど撤去されていて、携帯電話無しでの生活が考えられないタイであるが、なにしろ電話帳はすべて電話機のメモリの中。
誰とも連絡できない状態でタイに降り立ってしまった。
とはいえ、途方にくれていても仕方がないので、入国の連絡を誰にもしないまま、バンコクからコンケーン行きの国内線に乗り換え、コンケーンからレンタカーでシーサケートへ向かう。
長い運転中に熟慮した結果、もったいないけど携帯電話の新規購入を決定。
シーサケートのショッピングセンターでちょっと高価な機種を選んだ。
SIMカードが2枚挿しできる上、カメラ機能も内蔵。
会話よりショートメールの使用が重要なことからフルキーボード搭載機であることが選択の理由。
見た目はまんまブラックベリーのストレートタイプ。
小さなキーも意外に押しやすく、結構気に入った。
で、ホテルにチェックインして最初におこなったのが、持っていったノートパソコンで可能な限りの知り合いにメールを送り、電話番号を知らせてもらうことだった。
おおむねそれで問題無いはずだったが、唯一不安なのが、翌朝一番で会いに行く大学生のこと。
「朝の登校前に、大学内の昨年と同じ場所で待ってる」、というメールを夜遅くにに送った。
もし今夜中にこれを読んでくれなければ、待ちぼうけになってしまう。

2012-02-13

フェイスブック

日本では定着しないのでは、とまで言われたSNSのフェイスブックだが、タイでは「Hi5」からフェイスブックへの転居組が続出し、「Hi5」はすっかり閑古鳥の巣となってしまった感がある。
実名・顔写真を基本とするフェイスブックはSNSの基本原理が最も守られていて、実務派には受けがいいのだろう。
日本のミクシィも、もともとは招待制の実名主義だったはずなのに、日本人の匿名好きな風土に合わせたため、まったく役立たずの仕組みになってしまった。
どうも日本人はハードには強いくせに、ソフトを上手に使うことが苦手なようである。

ウチの子たちも、大学へ進学するなどしてメールアドレスを取得すると、メッセンジャーやSNSをうまく活用してるようである。
普段の彼らの動向がわかるっていうのは1年間離ればなれの父ちゃんにはとてもありがたい。
ことあるごとにこちらの健康を気遣うメッセージを寄こしてくれるのも泣かせる。
そんな中で何より嬉しいのは、フェイスブックの「友達」で、ウチの子たち同士がつながり始めたこと。
これまでは、僕がハブになってはいても、子供たち同士は基本的に面識は無いわけ。
それが次々につながっていくのを見るのはすごく楽しい。
そのうち、子供たちだけで会って話したり、困った時に助け合ったりしてくれたらいいな、なんて思っちゃう。
友達の友達はみな友達だってのがタイ人の良いところ。
当然、父さんの子供同士はみな兄弟なのである。

2012-02-09

最短記録

プランの現チャイは5人目で男の子としては2人目。
以前にもちょっと書いたけど、チャイルド紹介が訪タイの直前で、訪問できるかどうかはギリギリだった。
プランのチャイルド訪問は6週間前までに関係書類を提出することになっている。
4人目の完全終了を知らされたとき、すでに出国7週間前を切っていた。
タイなら追加支援のつもりがある旨、急いでメールで連絡。
可能との回答もメールで来た。
早速、チェンライの男の子のプロフィールが送られてきたので、チェンライをルートに入れて旅程を決定。
提出した訪問資料が先方に届いたのは、まさに出国6週間前だった。
念のために、旅程の後半に訪問日を指定しておいたが、おそらくチャイルド紹介からチャイルド訪問までの最短記録だったのではないかと思う。
チャイルドにしてみれば、プランの現地スタッフから「日本人のスポンサーが決まったよ」「で、近々訪ねてくるからね」と告げられたわけで、ビックリしただろね。
こんなことができるようになったのも、事務局との連絡はもちろん、ホテル、航空券、レンタカーの予約にいたるまで、全部ネット経由で簡単におこなえるようになったから。
世の中、大きく変わったもんだ。

2012-01-25

プラン危機一髪

タイ警察が、バンコクでテロが起きる可能性ありということで注意を呼び掛けていた。
直後にテロリストとされる人物が逮捕され、テロは未然に防がれたとのこと。
それにしても、今回のテロ計画には驚かされた。
テロの対象とされた建物はオーシャンタワーⅡで、25階に入居しているイスラエル大使館が狙われていたというのである。
実はこの建物、その少し下の階にはプラン・タイランドの統括事務所が入っているのだ。
何年か前、表敬訪問のつもりで立ち寄って、すっかり休憩場所としてくつろいだことがある。
ビルに入るだけでも厳しいチェックがあったのは、大使館まで入居していたからだったのか。
周辺は日本人も多いスクンビット地区で、何かあったら大騒ぎである。
というわけで、日本大使館からタイ在留邦人あての緊急メールが配信されたというわけ。
まだ完全に危機が取り除かれたと言いきれず、警戒は続くのだそうだ。

アメリカ・イスラエルとイランの対立など、またまた世界がきな臭くなってきているのだけれど、ま、いきなり外国でドカンなんてのは二度とやってほしくない。
超大国アメリカの強権ぶりも不戦国家日本の忠犬ぶりも、全然世界平和に貢献できていないどころか、逆効果になってしまっているのがこの世界の不幸である。
国際都市バンコクも、最近国内の権力闘争で評判を落としてしまい、そこへ未曾有の大洪水で体力も大きく削がれてしまった。
この上、外国の紛争に巻き込まれるようなことは絶対あってはならない。
くれぐれもタイの治安当局にはがんばってもらいたいものである。
それにしても、第三国でのテロ行為は国際社会で孤立するだけで、なんにも自分たちに利することが無いってことをテロ指導者はいつになったら理解するんだろ。

2012-01-16

会食

タイ滞在最終日、元プランスタッフの友人と食事をすることになった。
この日はほかに予定も無く、飛行機も真夜中出発なので時間はたっぷりある。
もともと、何かあった時の予備日だったのである。
彼女の仕事が終わってからということで、ホテルで待ち合わせて夕食を一緒にと約束する。
本来なら時間を持て余してしまい、せわしなく街を歩きまわっていただろうけど、腰を痛めているから何もしない時間がありがたい。
昼まではホテルの部屋でゴロゴロ過ごし、チェックアウト後は荷物を預けてロビーでやはりゴロゴロ。
民族衣装の女性が伝統楽器の生演奏をしているのをすぐ近くのソファで聞きながら、チェンマイの古書店で買ってきた文庫本を読む。
不相応に贅沢な時間に、なんでホラー小説なんか買ってきたのかってのが唯一の後悔であった。

文庫を少し読んではウトウトというのを繰り返していると、彼女から電話がかかった。
非常に恐縮して、今夜の食事をキャンセルさせてくれというのである。
現在、バンコクにあるオーストラリアの大使館に勤めていて、何でもタイの警察のお偉いさんと彼女のボスが会食をすることになり、通訳として同行しなければならないというのである。
これはもう仕方が無い。
どちらが重要かっていう前に、出てくる料理がそもそも違うだろう。
ま、直接会うことはかなわなかったが、電話で何度も話せたし、こちらはそれで十分。
来年の再会を約束して電話を切り、早めに空港へ向かうことにした。
結局、一流ホテルの有名レストランへは一歩も立ち入ることなく日本へ帰ることになってしまったのである。

2012-01-13

四女

腰痛のため訪ねていけないので、四女もホテルに来てもらうことにする。
せっかく高級ホテルに泊っているので、ホテル内の日本食レストランにでも連れていってやろうとの思惑。
次男グループとでは絶対いやだけど。

薬局勤めの四女の勤務は午後9時までなので、終わり次第ホテルに来ることになった。
バンコクの北のはずれにいるので、移動はちょっと不便だ。
車代は払ってやるからタクシーで来なさいと指示。
立っているのも辛かったが、時間より早くホテルの玄関に出て到着を待つ。
なぜ日本人だとわかるのか、ドアボーイがサッカーでの日本の活躍を教えてくれる。
乗りつけるタクシーを何台見送ったかもわからなくなったころ、ようやく四女が乗った車が着いた。
前回は彼女がバンコクに出てきて間もなかったが、それからちょうど1年が過ぎている。
どんなに変わっているか不安だったけれど、髪も染めずにいることにちょっと安心。

それじゃ晩ご飯食べながら、と思いきや、ホテル内のレストランは軒並み営業時間を過ぎていて閉まっている。
バーのたぐいはやっているらしかったが、娘を連れて行く気にはならない。
周囲の人間が彼女のことを誤解してみることが明らかだから。
で、仕方なく部屋に戻って、大きな机を挟んで筆談によるインタビュー開始である。
低賃金で長時間勤務、休みもほとんど無い職場環境であるが、薬局は常に客でごったがえすことは無いわけで、仕事そのものは過酷というわけではなさそう。
彼氏はできたかと尋ねたら、「私はきれいじゃないから」と否定する。
これは親の贔屓目を差し引いても謙遜が過ぎる。
ま、性格がおとなしい上、親戚の家に同居しているので、男連中も誘いにくいのだろう。
といっても、彼女ももうすぐ22歳。
次の1年間がもっとも心配なのがこの娘であることは変わりないのである。

2012-01-06

次男

次男から電話がかかってきたのは、空港からホテルへ向かうバスの中にいるときだった。
友達の携帯電話を借りているとのこと。
彼はマハサラカムから就職でバンコクに出てきていて、事前に実家近くに住む従姉妹から連絡をつけてもらっていたのである。
いつホテルに着くかと言うので、間もなくだからホテルのロビーで会おうということにした。
ホテルにはすぐに着いたが、腰が痛いためすぐに部屋へは行かず、チェックインを済ませてそのままロビーで待つことにした。
次男の勤め先はチャオプラヤー川の反対側なので、先方のほうがかなり時間がかかるようである。
しばらくして待ちかねた次男がホテルに入ってきたが、これが何とも場違いなのだった。

実はこのしばらく前、このホテルの周辺で暴動があって、まだ周辺にはあちこちに焼け跡がある状態。
ホテルの中でも爆発があり、ようやく営業を再開して間もないときだった。
当然、海外からのセレブも多く宿泊するホテルのセキュリティは厳しく、入ってくる車も、歩いてくる人も、金属探知機でのチェックはもちろん、手荷物も全部開けて見せてからでないと通してもらえない。
いたる所に立っている警備員はもちろん、従業員が常に歩き回って周囲に気を配っている。
こちらはやましいところが無いはずなのに、変に疑われないよう、キョロキョロすることすら控えるようになっていた。
そこに現れた次男は、中学時代から100キロを越していたくらいで、日本にいたら相撲部屋以外就職口は無いだろうという巨漢である。
これが左右に友人とおぼしき同年代の少年を二人引き連れていて、三人が三人とも高級ホテルに不似合いなTシャツ・半ズボンにサンダル履きである。
街中で見かけても、腕に覚えの不良少年グループにしか見えないだろう。
手ぶらの上に宿泊客との待ち合わせだから通してくれたものの、もし紙袋でも提げていようものならどう扱われたことやら。
僕は彼が気の優しい子だとよく知っているし、その友達もおとなしいいい子達であることはすぐに分かった。
ただ、この三人を引き連れてホテル内を歩くのだけは少々キツかったものである。

2012-01-02

贅沢

年に一回の訪タイでは航空会社のマイレージもなかなか航空券に交換できるまでにはならない。
で、たいていは期限が来る前にホテルの宿泊券に交換することになる。
ところが、マイレージ・サービスで泊まれるのはわりとデラックスなホテルなのである。
これまではチェンマイやコンケーンで使っていたが、2010年、初めてバンコクで使ってみた。
バンコクでも老舗の一流ホテルである。

寝るだけには広すぎる部屋に大きすぎるベッド。
一人で一泊するだけなのに枕が8個もある。
いつもなら出歩いてばかりでホテルには寝に戻るだけなのだが、この時は腰を痛めていたので一歩も外出しなかった。
バンコクで働いている次男と四女との面会もホテルへ呼び寄せることにして、ホテルでのんびり過ごす。
食事に行くのも億劫なので、ちょっと高くつくけどミニバーのスナックとビールで一食済ませることにした。
高級ホテルゆえか、飲み物の値段表などは見当たらない。
ま、宿泊費がタダなんだから、ということで気にしないことにする。
驚いたのは、翌日のチェックアウトの時。
なんとミニバーの料金が、いつものバンコクでのホテル一泊分に相当する金額だったのである。

2011-12-02

消息不明

高校を卒業後バンコクで働いていた四女と連絡が取れない。
バンコク北部の薬局で店員として働いていたが、今年6月に会った時に使っていた電話番号が通じない。
洪水の被害の大きい地域なので、仕事はもちろん、住んでいるところも水没したはずである。
実家は東北のサコンナコン県なので、おそらく帰省して自宅待機ではなかろうかと思っていた。
電話が通じないのはプリペイドが切れたとかでよくあることだから、それほど心配もしていなかった。

先日、ウドンの知人がフェイスブックで寄こしたメッセージで、ウチの子たちのことを心配してくれていたので、実は何人か連絡が取れないのだと告げた。
調べてあげるよ、との言葉に甘え、四女の番号を教えたが、彼女が電話してもやはり不通であった。
そこで、四女の実家にいる母親とコンタクトしてもらうよう依頼していたのだが、驚いたことに実家にもこの2カ月連絡が無いというのである。

最後の連絡で、四女は正月に帰省すると言っていたそうだ。
おそらく1月のことではなく、4月のタイ正月をさすのだと思うが、それは定かではない。
もし実家のほうに連絡があったら、必ず僕のところにも知らせが来る、という段取りをつけてもらうことができた。
あとはこちらからできることは何もないので、ただ連絡を待つだけだ。

今回の洪水は確かに大勢の死者も出しているが、津波のようにいきなり襲ってくるものではなかったはず。
極端な話、もし死んでいれば逆に親元への連絡は速やかに行っただろうから、どこかで不便な暮らしを強いられてはいるかもしれないが、無事ではいるはずだと信じたい。
四女を含め、現在ウチの子は4人がバンコクとその周辺で暮らしている。
ほかの3人にいたっては、電話すら持っていなかったりで、連絡の手段が無い。
来年、直接実家を訪ねて安否を問うしかないのである。
全員の無事を確かめるまで、悩ましい日が続きそうである。

2011-11-21

恥の泥団子

タイの洪水ニュースの中で、首相も率先して川を浄化する泥団子を投げ入れている様子が映し出されていた。
いわゆるEMボールというやつで、有益な菌類を練りこんだ泥団子を川に投げ込めば、みるみる水質が浄化されるというものである。
そのために大勢のボランティアが団子作りに精を出しているとのこと。
国を守るためにどんなことでもやろうというその姿はまさに感動もので、見ていて涙が出そうなくらいであった。
ただ残念なことに、彼らの努力は何の成果も上げることは無いのである。

タイの知人がメールでこのEMボールの効果を尋ねてきた。
これはまったくの疑似科学であって、提唱者が言うような効果は全然期待できないこと。
そもそもその効能自体が非科学的で、成功例として挙げられている事例そのものがほとんど捏造といってもいいくらい胡散臭いこと。
タイで実行している人たちの行為には敬意を払うが、少なくとも首相はもっと別のことを考えるべきじゃないか。
などなどを恐る恐る告げたところ、タイでもチュラ大の教授だかが批判的意見を公表していると言っていた。
その知人もそういったルートから怪しいと思い始めていたので、僕の意見を素直に聞いてくれたが、それでもボランティアの作業者を説得して中止させるということは難しいのだと言う。

大災害に際して、さまざまな風説が流れることはどこの国でも同様。
中には無駄な努力や逆効果なんてのもあるだろうけど、混乱の中ではそれもある程度仕方がないと思う。
しかしこの件で悔しいのは、追い詰められたタイ人がこのインチキ団子に飛びついた理由として、これが日本で公害対策に用いられて大きな成果を挙げたからだと言われている点だ。

実は、日本ではこのインチキ団子を環境教育の一環として取り入れている学校まであるというのだ。
多くの子供たちが汚れた川をきれいにするという目的で、どっちかって言うと川を汚す行為を繰り返しているのである。
一方で、材料を売っている連中は大儲け。
世の科学者連中は、もっとこういった似非科学に厳しい態度を示さなければならないんじゃなかろうか?
次代を担う子供たちや、災害に苦しむ途上国の住民を騙くらかして、どれだけ彼ら環境ヤクザが儲けているのであろうか。
自分の家を後回しにしてまで首都の衛生環境を守ろうとしているバンコクのボランティアたちのことを思うと、同じ日本人として恥ずかしいかぎりなのである。

2011-10-21

捜索(その2)

親切にしてくれた恩人の名前がカタカナでしかわからないのでは礼状一つ出すこともできない。
しかし、学校名がわかっているので、学校を訪ねればなんとかなるかもしれない。
卒業していても卒業者名簿から割り出すことも可能だろう。
いずれその日が来ることを信じて、彼の名前を書いたメモはずっと大事に保存していた。
それでも、僕がチェンマイに滞在するのは、年に一度、せいぜい丸二日が精一杯である。
その間に訪ねなければならないところも多く、彼を探す時間が取れないまま、年月だけが過ぎていった。

ところが、技術の進歩が思わぬところから手掛かりを与えてくれるようになった。
インターネットとSNSの普及である。
Hi5やフェイスブックでタイの友人たちと交流しながら、機会があるたびに、僕は彼の名前を検索にかけていた。
タイ人は多くの場合SNSで本名登録をしている。
先日、英語綴りの彼の名字をフェイスブックに見つけた。
名前は異なっているが、顔写真には十数年前の面影がある、、、ような気がする。
さらに出身校や年齢もほぼ条件を満たしている。
本人でなくても兄弟か従兄くらいの可能性は高い。
そこでさっそく彼にメールを送ってみることにした。
「あなたは十数年前に僕を助けてくれた人ですか? それとも別人でしょうか?」

すぐに返ってきた返事で、彼が本人に間違いないことがわかった。
改名する前の名前を僕が覚えていたことを喜んでくれて、さっそくコメントのやり取りをした。
毎年訪タイしていることを言うと、今度チェンマイに来たら行きつけの寺院をぜひ案内したいとまで言ってくれた。
お寺にあまり関心は無いが、電話番号も教えてもらったので、待ち合わせも簡単だろう。
長年の宿題が簡単に解決し、非常に気持ち良かった。
もっとも、彼のほうは自分が日本人を道案内したことなど、まったく記憶していなかったらしい。
それはつまり、彼にとってあれが特別な行為ではなかったということなのだと思う。
「忘れっぽいって、友達からもよくからかわれるんです」という彼の人柄をますます好きになり、タイにまた素敵な友人ができたことが何より嬉しい。

ついでに彼の友人リストの中から、あのときの彼女と思われる人も見つけてしまった。
今どういう関係なのか、それは来年彼に会ったときに聞いてやろうと思っている。

2011-10-20

捜索(その1)

すでに15年近く前のこと。
ランプーンの次女を訪ねたついでに、当時チェンマイにあったプランの現地事務所を表敬訪問することにした。
乾期だったのでバイクを借り、日本のプラン事務局から聞いていた住所を探して、市街から北へ向けて走っていった。
当時はグーグルマップなど無く、手に入る紙地図も詳細なのは観光地である市街部のみ。
市街を出てから何キロか行ったところで、さらに先になるのか、あるいは行き過ぎてしまったかと判らなくなってしまった。
最初からその辺りで誰かに尋ねることは想定内だったので、スピードを落として暇そうな人を物色してみる。
炎天下で歩いている人を引きとめるのも悪いな、とか思っているとバス停のベンチに座っているアベックを発見。
少し行き過ぎたところにバイクを停めて彼らのほうを振り返ると、男性のほうが立ち上がって、こちらに向かって走ってきた。
僕のところまで来ると、彼のほうから声をかけてきた。

「何かお困りですか?」
きょろきょろしながら走っていたバイクが、自分たちのほうを見てからいきなり停まったので、おそらく道に迷ったのだろうと推察し、自分のほうから近付いてくれたのだった。
プランの住所を書いたメモを見せたが、残念ながら彼もその住所がどの方向かは知らないとのこと。
メモには事務所の電話番号も書いてあったので、そこへ電話をかけてみたらということになった。
まだ携帯電話が普及する以前のことである。
実はタイのテレホンカードも持ってはいたのだが、郊外の道路沿いにそうそう公衆電話があるわけではない。
彼は自分が電話の場所を知っているからここで待ってろと言い、僕と連れの彼女を残して走っていってしまった。
すぐ近くに電話があるのだろうと思っていたが、これがなかなか帰ってこない。
随分経ってから戻ってきた彼が言うには、事務所の場所はまだ先で、プランのスタッフが道路まで出てくれることになったとのこと。
ただ、どのくらい先かってことが要領を得ない。
なにしろタイ人は地図が苦手で、距離感覚も非常に大雑把なのである。
その上、僕との会話では言葉の壁も大きく立ちはだかる。
で、彼が提案したのが、僕のバイクを彼が運転、後ろに僕を乗せて待ち合わせの場所まで行くということ。
恐縮して一度は遠慮はしてみたものの、行った先でまた迷子になれば、今度は待っているプランのスタッフに迷惑をかけることになる。
ここは彼の提案に甘えるしかない、というわけで、とうとう道案内のみならず運転手までさせてしまうことになった。

思っていたより長い距離を北へ走っったものの、彼のおかげであっさりとプランのスタッフに会うことができた。
ひとしきりお礼を言い、それではさっきの場所まで今度は僕が送って行くよと告げたら、彼はその必要は無いと言う。
さっきの彼女が一足先に自宅に戻り、彼女の親が車を出してここまで迎えに来てくれることになっているというのである。
そうこうしているうちに、本当に乗用車がやってきた。
運転しているのは父親で、後部座席には彼女が母親と一緒に乗っている。
ただ通りがかりに道を尋ねただけなのに、どこまでこの人たちは手間をかけて面倒を見てくれるのだろうか。
タイ人の親切心には慣れていたはずだが、それでもこの出来事は衝撃だった。

後でお礼の手紙を出したいと思い、手帳に名前と住所を書いてもらって、持っていたテレホンカードをお礼に渡して彼らと別れた。
後であらためて手帳を見てみたら、そこにはなんと彼の名前がカタカナで書かれていて、住所の記載は無かった。
日本語が書けるってのが自慢だったんだろうけど、これでは礼状を出すなんてできないじゃないか!
(続く)

2011-10-12

帰省

2010年6月の訪タイ時、ランプーンの次女の実家に着くと、次女は夫と一緒に帰省していた。
次女の暮らすスコータイからの距離は、東京を起点としたら浜松辺りまで行くくらい。
年に数回帰省するくらいは簡単なものだろうと思っていたが、聞いてみてびっくり。
次女と夫はバイクの二人乗りでこの距離を走ってきたというのである。
もちろん、大型バイクではない。
スポーティなデザインにはなっているが、ベースはホンダのスーパーカブ。
排気量100cc程度で二人乗り仕様にこそなっているが、基本は街乗りであって、長距離ツーリング向きではない。
しかも高速道路ではなく、まっ黒排気ガスのバスやダンプと並走しながらだ。
「なんてことするんだ、ばか野郎。バスを使えばいいだろう」
道中で転倒でもされてたらと想像するとゾッとする。
毎年多くのタイ人が二輪の事故で簡単に死んでしまっているのだ。
今回は僕の訪問に合わせての帰省だったから、余計に責任も感じるのである。
もっとも、当人たちは特別無茶をしたという意識は無いらしく、「タイ人はバイクが好きだから」なんてことを言ってヘラヘラしてる。

その日は、僕の車で次女一家とチェンマイの動物園へ行った。
園内の水族館を見終える頃には皆歩き疲れていて、一瞬、次女がほかのメンバーと離れて一人だけでベンチに座ったことがあった。
そのタイミングを逃さず、僕は次女の前に跪き、ずっと気になっていたことを小さな声で尋ねてみた。
「立ち入ったことを聞くけど、お前、ひょっとしてお腹に子供がいたりはしないか?」
若い新婚夫婦だから、もしかしたらと思っていたのである。
次女の返事は、「わからない。でもいるかも知れない」というものだった。
つまり、兆候こそないが、可能性はゼロではないと。
それを聞いては日本の父ちゃん、もはやバイクの後部シートでスコータイまで帰らせるなんて論外である。
「バス代は出してやるからお前は絶対にバスで帰れ。旦那はバイクで一人帰らせろ。バスターミナルまでが遠いんだったら僕が送っていってやる」

そして丸一年後、再びランプーンの実家を訪問した時、そこに次女の姿は無かった。
今回は僕に会うために帰省することができないと、謝罪の手紙を出したというのだが、ちょうど日本を出たころに行き違いで届いていたことは後から知ったのである。
「どうして帰れなかったの?」とがっかりして尋ねた僕に次女の家族から返ってきたのは、彼女は今スコータイで育児中だからという答えだった。
うーん、逆算すれば一年前のあの水族館での会話、まるっきり見当外れの取り越し苦労というわけではなかったようなのである。

2011-10-08

失態(その2)

乗るはずだった飛行機に置いていかれるという、最悪の失敗をしてしまった。
実は長年視力だけが自慢で、以前ならカウンターのプレートは遠くからでも読めたのである。
ちょうどこの旅のころから遠くが見にくくなっていたのだが、目から入力される情報量が低下していたことに迂闊にも気づいていなかった。
チェンマイ以上に外国人が向かうプーケット行きのゲートだったことも災いした。
タイ人比率の高い東北行きの便だったりすれば、待合スペースの雰囲気ですぐにわかったはずだ。

状況としては非常に困ったことになっているのであるが、実は内心、それほど焦ってはいなかった。
不幸中の幸いで、チェンマイ行きはタイの国内線で最も便数が多いのである。
それほど待つこともなく、次のチェンマイ便が出るはずだ。
カウンターのスタッフも、無線で簡単に連絡を取るや、「大丈夫ですから、安心してここで待っていてください」という。
そして、すぐさま次の便のチケットをその場でプリントしてくれて、その便のゲートまで案内してくれた。
もちろん、追加料金も無しである。
預け荷物についても連絡してくれるとのこと。
この日はチェンマイのホテルにチェックインするだけだったので、夕方の到着が1時間半遅れただけで済んだ。

そもそも搭乗券に印刷されていたゲート番号のほうが間違っていたのだから、空港で迷子になって乗りそびれるような連中とは違うぞ、なんて言い訳は通用しない。
確かに先方にも重大なミスがあったわけであるが、そもそも表示プレートの確認くらいはするべきだったのである。
タイトな旅程では時間こそが最も大切なのだから、人のせいにして済ませられるものではないのだ。
なにより、搭乗予定だった便の乗員乗客にまで多大な迷惑をかけたことになる。
確認する時間はあったのにそれを怠ったわけで、これは大いに反省。

そしてちょうど一年後、たまたま、まったく同じルートをたどることになった。
二度と同じミスをしないようにと自分に言い聞かせながら、受け取ったチケットを見て驚いた。
今度は乗り継ぎゲートの欄が空欄になっていたのである!
下手にゲート番号を書いておいて、万一変更になったりしたときに慌てさせるより、乗り換え空港に着いてから自分で探させれば、そもそも間違えようがないということか。
スワンナブーム空港では、掲示板の表示を確かめてからゲートに向かい、まずカウンターの表示と便名を確かめてから待ち合いのベンチに腰掛けた。
なるほど、これがミスを防ぐための対策としておこなわれていたのであれば、完璧な対応と言わざるを得ない。