訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2008-01-30

カラシン先生のこと(2)

タイから帰国してまもなく、カラシン先生の誕生日に電話をかけた。
別人かと思えるほどのか細い声だったが、誕生日を祝ったことには嬉しそうに返事をしてくれた。
なんともいえない不安な気持ちになったものの、病状を詳しく聞きだす語学力も無いし、話を長引かせるのもどうかと思い、その時はすぐに電話を切った。
その後、カラシン先生の同僚がチャットで頻繁に状況を知らせてくれることになる。
先生の病気は癌で、診断後ただちに入院したこと。
すでにかなり重篤だということ。
その後、痛みが激しくモルヒネを投与している、話をすることができなくなった、昏睡状態におちいり、もはや回復の見込みは無い、と知らせを受けるたびに病状は急速に悪化して、とうとう、8月12日に亡くなってしまった。
誕生日に電話してからわずか一か月、先生の自宅で会ってからも50日経っていなかった。
あまりにも急なことで、一人娘のジューンはひどく落ち込んだと聞いた。
先生が亡くなった日は、タイにおける母の日である。
これから毎年、ほかの子供たちが母親に感謝の花を捧げる日が、彼女にとっては大好きなお母さんの命日となるのだ。

2008-01-27

カラシン先生のこと(1)

三女の学校を初めて訪ねたとき、相手をしてくれたのがカラシン先生だった。
英語の先生ということで対応してくれたのだと思うが、こちらの英語がさっぱりなので苦労されたと思う。
翌年紹介された長男も偶然に同じ学校だったこともあり、同校には毎年立ち寄ることになる。
さらに、四女の学校もそこから数キロしか離れていなかったことで、四女を訪問する時にもカラシン先生は同行してくれた。
よく昼食に誘ってくれて、子供たちが世話になっているからと、食事代をいつも払ってくれていた。
四女が進路で悩んでいたとき、一緒に家庭訪問して、地元での進学を勧めてくれたのもカラシン先生だった。
自宅に招いてくれたり、公園のイベントに連れて行ってくれたり、同じ年の娘がいるということもあって、とても親身に面倒をみてもらった。

2004年の訪タイ時には、週末だったため、学校へ行かずに直接先生の自宅に立ち寄った。
先生はちょっと体調が悪いので休んでいたとのことだったが、このあと子供たちを訪ね歩くのに同行すると言ってくれた。
ありがたい申し出であったが、せっかくの週末なので、しっかり休んで元気になってくださいと、同行を断って家を出た。
「明日の日曜日はモデル授業をすることになっていて、偉い人も大勢見に来るから、その準備にも追われているの。それでは申し訳ないけど、今日はごめんなさい。そのかわり、今、この家を改築しているので、来年はうちに泊まってちょうだい」

このときは風邪をひいてるくらいにしか思っていなかったのだが、先生が亡くなったと知らされたのは、それからわずか一月半後のことだった。

2008-01-23

何年ぶりかで雪が降り続いた。
自宅周辺は積もらなかったが、山の上にある職場はかなりの積雪である。
仕事にならないので、二日間自宅待機になった。
タイ語で雪のことを「ヒマ」というが、語源はきっと日本語の「暇」だろうと思う。
退屈してきたので、三日目には出勤して、道路の雪かきをした。
雪が降るといつも思うのが、タイのチビたちに見せてやりたいってこと。
数十センチに積もった雪はきっと珍しいに違いない。
ただ、寒がって外に出ようとしない可能性もある。
いつの日か、彼らが日本に遊びに来る日があるかもしれないが、もし、日程の相談を受けたら、結局は過ごしやすい初夏の季節を勧めるんじゃないかとも思う。

2008-01-17

寒い?

三女から手紙が届いた。
新年の挨拶に続いて、「日本は寒いですか? タイは寒いです」
つい、誤訳したのかと思ってしまうが、だいたいこの季節の手紙には誰も彼も「寒い」と書いてくる。
確かに北の高地であるチェンライやルーイでは、朝は肌寒く感じることもあるけれど、三女がいるのはバンコクの南、チョンブリ県である。
念のためにインターネットで天気を調べてみると、最低気温ですら20度もある。
「寒い」というより、「快適」そのものではないのか?
もちろん、暑い寒いは感覚であるから、タイ人にとっては20度が寒い、ということもわからないではない。
三女の家は、床はセメントを流しただけの土間だし、隙間風も入るだろうから、本当に寒いと感じているのであろう。
でも、毎日氷点下で仕事をしている身にすれば、ふざけるなって言いたくなるような環境なのである。

2008-01-09

バイクのキー紛失事件

ランプーン県の次女を初めて訪ねていったときのこと。
道中、道を尋ねながらになると思ったから、チェンマイでは車ではなくバイクを借りた。
国道を南下すること約1時間、現在地確認のためにバイクを道端に寄せたときである。
なんと、バイクにささっているはずのキーが無い!

人間、パニックになるとまともな思考ができなくなる。
服のポケットというポケット、かばんのすべての仕切りに手を突っ込んで、キーを探しはじめたのである。
しかし、見つからない。
当たり前である。ここまで走ってきた以上、ポケットにキーをしまい込んでいるはずなど無い。
磨耗して緩くなっていたために、道中で落下したのであろう。

レンタルのバイクであるから、何かあったら弁償である。
実費で済めばよいが、手数料・迷惑料などといわれれば、いくらになるかわからない。
なにより、面倒な交渉ごとなど願い下げである。

最善の対策は落としたキーを見つけることだ。
さっそくバイクをチェンマイに向かって逆送させる。
反対車線を走るわけには行かないから、いったん戻って、同じ道を走りなおすのである。
が、しかし、全速でかっ飛ばしてきたこの道を、今度はゆっくり路面を見渡しながら走るとすると、どれだけ時間のロスになるか。
最低でも2時間以上、しかも絶対に見つかるという保障は無い。
そもそも、次女を探すのに何時間かかるかも未知数なわけで、時間の無駄はもっとも避けたいところだ。
というわけで、やはり、ここはキーの捜索は諦めることにする。
次女を無事見つけ出すことの方が、バイク屋とのトラブルを避けるよりも重要である。

もう一度Uターンして、再度バイクをランプーンへ向けたときのことである。
前方の路面に光るあの物体は??
驚いたことに、それはこのバイクのキーであった。

紛失に気がついたタイミング、一度は引き返しながらも、すぐに捜索をあきらめたタイミング、何かがもう少しズレていたら、こうも簡単には発見できなかっただろう。
引き換えした距離もわずか300メートルほどであった。

以後はエンジンをかけたらキーを抜き、エンジンを切るときにまた挿す、という対策をとる。
案の定、磨り減ってしまったキーは、ONの状態でも、簡単に抜け落ちる状態だったのである。

この件でいまだに気になっていることがひとつ。
キーが抜けやすくなっていることをバイク屋に言い忘れたのだが、その後、どこかの誰かが同じバイクを借りて、同じパニックに遭遇してしまったんじゃなかろうか?