訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2009-07-31

アンダー・ザ・レインボー

イサーンでの初日は、午前中にチェンマイから飛行機でバンコク、コンケーンと乗り継ぎ、コンケーン空港で車を借りる。
レンタカーの窓口で前の客がもたつき、かなり待たされてしまった。
空港を出たら120キロ離れたボラブーへ向かう。
次男の通っていた学校へ立ち寄り、彼がこの春無事に卒業していることを確認。
次男の家へ行ってみると、仕事に出ていて留守だった。
このあと、シーサケートのホテルで長女と待ち合わせているので、ゆっくり待ってもいられない。
シーサケートまでは、さらに200キロ以上ある。
元気で働いているならいいか、ってことで、次男には会えないまま、すぐにシーサケートへ向かう。

昨年は日没後の雷雨の中を走りぬけた道だったので、明るいうちに出発できて安心していたのだが、逆にそれが油断になってしまった。
次男の家を出てすぐに道を間違えて、30分ばかり無駄に走ってしまう。
しかも、2度ほどスコールにあい、スピードを控えなければならなくなった。
このままでは待ち合わせ時間までにシーサケートに着けないかもしれない。
あせる気持ちを抑えつつ、途中で休憩することもなくひたすら東へ車を走らせていると、西日が差し出し、前方に虹が架かった。
まさに進行方向で、運転席からは虹のトンネルに向かっていくように見える。
(長女と六女はあの虹の真下で暮らしてる)
(今頃、あの子たちも頭上の虹を見上げてるかも)
非科学的なことを考えつつ走っていると、やがて雨も完全に止む。
シーサケートまでまもなくというところで、長女から電話がかかった。
待ち合わせの午後5時である。
「あと10分ぐらいで着くよ。ホテルで会おう」
さっきの虹を見たか、って尋ねたりは、もちろんしない。

2009-07-19

翼よ、あれがタイの灯か?

人工衛星が撮影した地上の写真がある。
昼間の部分をつなぎ合わせたものはグーグルアースなどでおなじみだが、夜間に撮影したものばかりをつないだものも「夜の地球」として、特殊な目的で利用されている。
その「夜の地球」マップを見ると、日本などは夜間照明によって、昼間と同じ列島の形が浮かび上がってくるわけだが、逆に北朝鮮などは地上からすっぽり抜け落ちたみたいに真っ黒である。
都市の灯り以外で目立つのは、日本海の漁火、油田や石油コンビナート、焼き畑、そしてオーロラの光。

さて、タイはというと、東南アジアではダントツに明るいのである。
カンボジア、ラオス、ミャンマーなどが暗いため、国の輪郭が浮かび上がるくらいだ。
タイは平地が多いため、都市は全国にまんべんなく散らばっているといってもよい。
そして、その都市と都市は、整備された国道によってつながっている。
タイの典型的な都市は、市街地から放射状に4,5本の幹線道路が、それぞれ隣の都市へ向かって出ていくという構造をしている。
それがハニカム構造のように全土を覆っているのだ。
ただ、日本と違うのは、都市と都市の間は一気に人口密度が下がるということ。
これは国土が1.5倍もありながら、山岳地帯が少なく、かつ人口が日本の半分しかいない、ということろからきているのだと思う。
市街地が急速に膨らんでいき、隣の都市とつながってしまうということは、タイではあまりないらしい。
こういったことから、地方へ行くと、主要国道なのに街灯が無い、という区間がしばらく続いたりもする。
つまり、日本は人口密集地が面で存在するのに対して、タイではいくつもの点で存在するというイメージになる。

一方、首都の明るさは東京にも負けないものであるから、タイへ向かう飛行機から見下ろす夜景も変化に富んでいる。
まず、真っ暗な陸地から、点在する地方都市の灯りを散見するようになって、国境を越えタイに入ったことがわかる。
やがて、ひときわ広範囲な灯りが見えるころには、飛行機も高度をしだいに下げ、そこが首都バンコクであることを知る。

北部・東北部ののんびりした雰囲気に比べ、首都の慌しさは好きになれず、バンコクはタイで唯一嫌いな町だと公言している。
が、それでもこここそがタイの玄関口。
到着のときの興奮や、最終日の寂寥感は、ともにバンコクの夜景が演出する。
旋回する飛行機から見下ろす街灯りに、毎度、涙が出そうになるのである。
チェックインのときに決まって窓側の席を選ぶのは、この景色を眺める短い時間のためである。

2009-07-06

親父の一番短い日

帰国日には空港へ次女を呼び出した。
この日は時差の関係で一日が22時間になり、十分に睡眠時間をとれない。
翌日からの仕事を考えると、あまり動き回って体力を消耗したくないので、待ち合わせの5時間前には空港入りし、本を読みながら静かに待つ。
少し早くに現れた次女に後ろから肩を叩かれて再会、食事をしながら話をしようと、空港内の食堂に入る。

昨年ここで会ったときには、結婚を考えている相手がいるといっていた。
「あれからどうした? もう結婚したのか?」
「はい。いや、まだです」
「ん? どっちなの?」
「来週の30日にします」
「えーーっ!」

毎年、6月と7月をまたいで会いに来ているので、僕の滞在中に式を挙げるつもりだったらしい。
今年に限り仕事の都合で1週間早めたのが裏目に出たのだ。
あーっ、悔しい。
娘の結婚式で「瀬戸の花嫁」をタイ語で熱唱するのが長年の夢だったのに、またもその機会を逃してしまった。
それも自分から。

「で、その彼氏をなんで連れて来ないんだよ」
「この時間は、まだ仕事です」
「そうか。ま、連れてこなくてよかったかもね。もし、ここに来てたらぶん殴ってたよ」
「どうしてですか?」
「大事な娘を奪っていく奴だからだよ」
「フフフ」

ともあれ、相手の男がどんな奴かは非常に気になる。
写真はあるかと聞いても無いと答える。
「嘘つくんじゃない、ケータイ出してみな」
残念ながら、次女のケータイは超旧式で、カメラ機能も待ち受け画面もついてなかった。
相手の年は30だというが、次女ももう25だから、ま、不釣合いってことはないか。

「でも、本当は、一緒にお父さんに会いに来ることにしてたんですよ」
「それならどうして来ないの?」
「お父さんがランプーンで、私のお母さんに、日本に帰るのは明日だって言ったんですよ。お母さんが連絡してきたから、そのつもりで明日の仕事を休んで待っていたのに」
しまったーーーっ!
ランプーンの次女の実家で帰国日を聞かれたとき、確かに適当に答えた覚えがある。
筆談につかったメモ帳には、確かに「25」という数字が書いてあるし。
一日まちがって教えたのも、すべて自分のせいである。

「ごめんね、ごめんね。彼にもよーく謝っておいてくれる? くれぐれもよろしく言っといてね」
繰り返し頭を下げて謝るしかなく、ぶん殴るどころか、会う前から娘婿に負い目をつくってタイをあとにしたのだった。

2009-07-02

あなたに贈る 感謝状

タイから帰ってきたら、プランから手紙が来ていた。
長期スポンサーへの感謝状とある。
どうやら、10年超のスポンサーに送ったらしい。
申し訳ないが、これは嬉しいと思うよりも、逆に引いてしまった。

そもそも感謝状というからには、なんらかの「特別な」貢献をした人に出すべきである。
たとえば、僕が今度の宝くじの当選金3億円の使い道に困って、うち1億円をプランに寄付したのだとする。
その場合は、プランはちゃんとした感謝状を用意するべきだし、僕もそれを謹んで受領せねばならない。

でもね、僕はプランのスポンサーなわけで、つまりはプラン・ジャパンのメンバー、身内なわけである。
なんで身内から「上から目線」の感謝状をもらわにゃならんのか?
あるいは、10年、20年の節目ごとにもらったのなら、それはそれで、10年になった、20年になったと、スポンサーとしての自覚を思い直すきっかけになるかもしれない。
ところが、今回、初めて、かつ一括である。

プランは組織が大きいことの一つの弊害として、スポンサーを外部の者とみているようなところがある。
金の流れでみれば、
(スポンサー)->(プラン)->(チャイルド)という構造である。
しかし、支援の実態は、
(プラン&スポンサー)->(プラン&チャイルド)ではなかったのか?
プラン・ジャパンの会長・理事長も、一般職員も、個々のスポンサーも、同じ目的のためにがんばってるはず。
現地でも、プランのスタッフはコミュニティの家族らと「一緒に」なって開発活動しているはずである。
今回、長年理事を務めた人とか、職員に対しても「感謝状」ってのが出たのだろうか?
もしそうなら、それはそれで笑っちゃうが、スポンサーだけが切り離されたのでは、むしろ寂しく思えてしまうのだ。

スポンサーに対して不信感を持ってるかのごとくに、やたら誓約書を書かせたり、検閲ともいえるほどホームページやブログをチェックしたりっていうのも、万々一の不祥事を防ぐためということで理解できないわけではないのだが、まずはスポンサーをもっと身内意識を持って見るべきだ。
不祥事には個別に対応すればよいのである。

おそらく、プランも25年を過ぎ、初期からのスポンサーにも引退組が増えてきているのであろう。
それを少しでも引き止めるために、感謝状でベテラン・スポンサーを顕彰するという案が出たのだろうと思う。
しかし、プラン本来の趣旨からいえば、年寄りの年金を当てにして収入の維持をはかるというのは本末転倒である。
年配のスポンサーが去っていくなら、そのときにこそ感謝状でもだして送り出し、それ以上に若いスポンサーを増やしていけばよいのである。
プランに必要なのは、若い人が次々と新しく参加したくなるような、意義ある活動であり広報であるはず。
「給料もらうようになったのでプランに参加しました」って聞いたとき、我々年配スポンサーが、どれほど嬉しいかわかってもらえるだろうか?

あとは、チャイルドからの手紙さえ届いていれば、感謝状なんていらないのである。