訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2008-10-31

メールアドレス(5日目)

時間の限りゆっくり話をしたいのであるが、友達が同席していると、どうしてもそちらに気を使ってしまって落ち着かない。
しかし、タイではこれが当たり前で、普通の女の子が一人だけで男性と会うことはありえない。
大学生といっても、そこはきちんとしていて、五女の友達も黙ってずっと付き合ってくれている。
もちろん、彼女が同席することについて僕に許可を求めたりもしないし、先方も居心地が悪いということはなさそうだ。
こちらが勝手に申し訳ないと思っているだけなのであるが、こればかりはなかなか慣れるものではない。

「大学生になったんだから、メールアドレスを持たされてるんじゃないのか?」
電話が無くても、電子メールで連絡が取れれば便利だと思って尋ねてみた。
「はい、持っています」
その応えは予想通りだったのだが、「じゃあ、ここに書いて」と渡したメモ用紙に五女が書き込んだアドレスには驚かされた。
ほんの一瞬躊躇した五女が書きだしたメールアドレスは、なんと彼女の名前に僕の姓を続けたものをアカウントとしていたのである。
五女の名前はわりとありふれたものなので、それだけだと、すでに別の人がアカウントを獲得しているのは間違いない。
で、普通は誕生日とかの数字や好きな言葉を追加して新しく固有のアカウントを作るのであるが、そこに僕の苗字を取り入れたわけだ。
これでは似たようなアカウントすら絶対に存在しないだろうけども、使われた当人にとっては、なんだか妙に嬉しいやら恥ずかしいやら。
残念なことに、この嬉しさを表現することが日本の中年男にはできないのである。
「あ、そうなんだ」とそっけなくメモをしまい込み、その件にはそれ以上ふれなかった。
もっとも、あとでそのメモを何度も取り出して眺めては、いつまでもニヤついていたのであるが。

2008-10-25

カセサート大学へ(5日目)

タオンゴイをぐるりまわり終えて、サコンナコン市街へ向かった。
市街手前でカラシン先生の家を覗いてみたが、誰もいなかったのでそのままホテルに直行。
サコンで定宿にしているMJホテルである。
大型ショッピングセンター、BigCが近い。
フロントでカセサート大学までの道を尋ねると、国道から空港方向へ右に折れて3,4キロだと教えてくれた。
待ち合わせの時間まで暫くあったので、いったん先に行ってみることにする。
ところが、行けども行けども大学らしきものが見えてこない。
ホテルで聞いた距離を鵜呑みにしたわけではないが、さすがに2倍も行けば不安になってくる。
そろそろ引き返してみようかと思い始めたところで大学のゲートを見つけた。
交差点から10キロもあった。

場所を確認したので、一度ホテルに戻ろうとしたら、事故でもあったのか、渋滞に巻き込まれて全然動かない。
ようやく車が流れ出したものの、ホテルに帰り着いた時には、もうほとんど待ち合わせの時間である。
こんなことなら、最初から荷物を持って大学へ行けばよかった。
とんぼ返りで大学へ向かっていると、五女から電話がかかった。
待ち合わせ時刻を過ぎたので心配になったらしい。
この子の時間感覚はどうもタイ人らしくない。
「もう5分待って! 今向かってるから」

再び大学の入り口まで行くと、五女が小雨の中で友達と一緒に待っていた。
電話はこの友達のを借りたらしい。
その友達がバイクの後ろに五女を乗せ、僕の車の先導をつとめてくれた。
学校の主な建物は、まだすっと奥にあって、途中の学生寮などを横目にゲートから5キロも走らなければならなかった。
地方の国立大学だけあって、敷地が無駄に広いのである。
建物の一つに入って、手近な部屋を使わせてもらい、そこで暫く話をすることができた。

2008-10-15

新しい娘(5日目)

4人の子供たちの家をまわり終え、先生を送るために学校へ戻った。
そこで「カラシン先生記念奨学金」の新奨学生を教えられる。
休日であるから、当然本人には会えないのであるが、写真を見せてくれた。
何人かが写っているスナップ写真のなかの一人なので、顔もよく分からないが、女の子である。

後日、本人からのメールが届いたが、それによると、家族は祖父母、母親、いとこが2人とある。
ようするに、彼女も父親がいなくて母親の実家に頼っているのであるが、同居のいとこにいたっては、両親ともいないということになる。
これが、出稼ぎによる別居なのか、離婚、死別、あるいはそもそも結婚しなかったのか、なんてことはわからない。

ともあれ、彼女が17歳であるということから、ウチの子たちの序列が変わることになった。
昨日会ったばかりの14歳・六女が七女に降格して、替わりに新しい六女が入るわけだ。

以下、最新の家族構成
年齢・生年月日のあとにあるのは現在住んでいる県名。

長女 25歳 1983年 3月 1日 シーサケート 男児あり
次女 24歳 1984年 2月 6日 ランプーン  女児あり
三女 22歳 1986年 7月 6日 チョンブリ  男児あり
長男 21歳 1987年 1月11日 サコンナコン
四女 20歳 1988年 8月13日 サコンナコン
五女 19歳 1989年 3月12日 サコンナコン
次男 17歳 1991年 9月19日 マハサラカム
六女 17歳 生年月日不詳      サコンナコン
三男 15歳 1993年 2月16日 ノンカイ
七女 14歳 1993年10月24日 シーサケート
四男 11歳 1997年 9月21日 コンケーン

2008-10-12

ゲームセンター(5日目)

タオンゴイ地区最後の訪問は、昨年大学を中退した長男宅である。
しっかり働いていればいいけど、と思いながら家に着いたが、中から出てきたのが長男だとは、すぐには気づかなかった。
前髪を顔半分が隠れるまで伸ばしていて、まるで面長の鬼太郎なのである。
「なんだ、その頭は。散髪しろよ」

会って早々、小言から始まってしまったが、彼のこの一年も相当いろいろあったようである。
数年前には祖母らしき人がいたが、今は見当たらない。
確認はしなかったが、亡くなったと思われる。
母親と姉は今もバンコクで働いているそうだ。
そして、父親が暫く前に家を出て行ったという。
父親も出稼ぎに行ったのか、はたまた家出・失踪のたぐいなのかは尋ねることができなかった。
彼は今、この家で一人っきりで生活していると言ったからである。
家族それぞれに事情はあるだろうが、5年ほど前に建てたばかりの家で、家族が全然揃わない、一緒に生活していないというのは悲しすぎる。

仕事は何をしているのかと尋ねたら、ゲームセンターだと答える。
これには同行した先生とも顔を見合わせて苦笑いである。
ゲームが子供の日常にどれだけ悪影響かは、言うまでもないことであるから。
それではサコンナコンの街中のゲーム店で働いているのか、と思ったのであるが、これがとんでもない間違いだった。
長男に案内されて、家の中を通り抜けると、家の裏側の土間にゲーム機とテレビが2セット並べられていたのである。
なんと、こいつは、自宅でゲームセンターを経営していたのだ。
土曜日だったので、近所の子供が3人来ていて、プラスチックの椅子に座ってコントローラを構え、画面を食い入るように見つめている。
週末や放課後に、ゲーム機を買えない子供たちが小銭を握りしめて通ってくるのであろう。
どれだけ儲かるかも怪しいものであるが、客待ちの間は自分がゲーム三昧なんじゃなかろうか?
なんともヤクザな商売を始めたものである。

2008-10-01

お前もか!(5日目)

昨年、三女を訪ねてチョンブリ県まで行った。
三女の夫は兵役中で、工場で働く彼女に代わって生まれたばかりの赤ん坊を世話していたのは彼女の祖母だった。
1年間、同じところに住んでいるという保証はないので、今年もチョンブリへ向かう前にタオンゴイの実家を訪ねて、念のために消息を確認しておくつもりである。
三女の祖父か親戚の誰かに会えれば、住まいが替わっていないかどうかくらいは分かるはずだ。

実家の近くに車を停めて歩いていくと、家から思わぬ人が出てきた。
三女の祖母である。
チョンブリで一歳のひ孫の面倒をみているはずなのに、どうしてここにいるのか?
と、その後ろから現れたのは、当のひ孫である。
自分でちゃんと歩くようになっていたが、面影は確かに昨年チョンブリで会った三女の息子だ。
ということは、チョンブリの工場を辞めて、こちらに帰っていたのか。

先生を通訳に話を聞いたところでは、こちらに帰ってきたのは祖母と息子だけらしい。
三女はあいかわらずチョンブリの工場で勤めていて、今は一人で暮らしているとのこと。
それでは、ウチの馬鹿娘たちは、長女・次女・三女と、三人そろって、大事な一人っ子を田舎の実家に預けて、単身で働きに出ているということになる。
生活が苦しいのは分からないでもないが、幼い子供が父親とも母親とも一緒に暮らしていないというのは、どう考えても異常である。
タイ人は親孝行至上主義だと思っていたが、最近の風潮は必ずしもそうではないらしい。
その原因として、幼児期の別居生活が急増していることがあるのだとしたら、これは早急に手を打たねばならない。