訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2011-10-21

捜索(その2)

親切にしてくれた恩人の名前がカタカナでしかわからないのでは礼状一つ出すこともできない。
しかし、学校名がわかっているので、学校を訪ねればなんとかなるかもしれない。
卒業していても卒業者名簿から割り出すことも可能だろう。
いずれその日が来ることを信じて、彼の名前を書いたメモはずっと大事に保存していた。
それでも、僕がチェンマイに滞在するのは、年に一度、せいぜい丸二日が精一杯である。
その間に訪ねなければならないところも多く、彼を探す時間が取れないまま、年月だけが過ぎていった。

ところが、技術の進歩が思わぬところから手掛かりを与えてくれるようになった。
インターネットとSNSの普及である。
Hi5やフェイスブックでタイの友人たちと交流しながら、機会があるたびに、僕は彼の名前を検索にかけていた。
タイ人は多くの場合SNSで本名登録をしている。
先日、英語綴りの彼の名字をフェイスブックに見つけた。
名前は異なっているが、顔写真には十数年前の面影がある、、、ような気がする。
さらに出身校や年齢もほぼ条件を満たしている。
本人でなくても兄弟か従兄くらいの可能性は高い。
そこでさっそく彼にメールを送ってみることにした。
「あなたは十数年前に僕を助けてくれた人ですか? それとも別人でしょうか?」

すぐに返ってきた返事で、彼が本人に間違いないことがわかった。
改名する前の名前を僕が覚えていたことを喜んでくれて、さっそくコメントのやり取りをした。
毎年訪タイしていることを言うと、今度チェンマイに来たら行きつけの寺院をぜひ案内したいとまで言ってくれた。
お寺にあまり関心は無いが、電話番号も教えてもらったので、待ち合わせも簡単だろう。
長年の宿題が簡単に解決し、非常に気持ち良かった。
もっとも、彼のほうは自分が日本人を道案内したことなど、まったく記憶していなかったらしい。
それはつまり、彼にとってあれが特別な行為ではなかったということなのだと思う。
「忘れっぽいって、友達からもよくからかわれるんです」という彼の人柄をますます好きになり、タイにまた素敵な友人ができたことが何より嬉しい。

ついでに彼の友人リストの中から、あのときの彼女と思われる人も見つけてしまった。
今どういう関係なのか、それは来年彼に会ったときに聞いてやろうと思っている。

2011-10-20

捜索(その1)

すでに15年近く前のこと。
ランプーンの次女を訪ねたついでに、当時チェンマイにあったプランの現地事務所を表敬訪問することにした。
乾期だったのでバイクを借り、日本のプラン事務局から聞いていた住所を探して、市街から北へ向けて走っていった。
当時はグーグルマップなど無く、手に入る紙地図も詳細なのは観光地である市街部のみ。
市街を出てから何キロか行ったところで、さらに先になるのか、あるいは行き過ぎてしまったかと判らなくなってしまった。
最初からその辺りで誰かに尋ねることは想定内だったので、スピードを落として暇そうな人を物色してみる。
炎天下で歩いている人を引きとめるのも悪いな、とか思っているとバス停のベンチに座っているアベックを発見。
少し行き過ぎたところにバイクを停めて彼らのほうを振り返ると、男性のほうが立ち上がって、こちらに向かって走ってきた。
僕のところまで来ると、彼のほうから声をかけてきた。

「何かお困りですか?」
きょろきょろしながら走っていたバイクが、自分たちのほうを見てからいきなり停まったので、おそらく道に迷ったのだろうと推察し、自分のほうから近付いてくれたのだった。
プランの住所を書いたメモを見せたが、残念ながら彼もその住所がどの方向かは知らないとのこと。
メモには事務所の電話番号も書いてあったので、そこへ電話をかけてみたらということになった。
まだ携帯電話が普及する以前のことである。
実はタイのテレホンカードも持ってはいたのだが、郊外の道路沿いにそうそう公衆電話があるわけではない。
彼は自分が電話の場所を知っているからここで待ってろと言い、僕と連れの彼女を残して走っていってしまった。
すぐ近くに電話があるのだろうと思っていたが、これがなかなか帰ってこない。
随分経ってから戻ってきた彼が言うには、事務所の場所はまだ先で、プランのスタッフが道路まで出てくれることになったとのこと。
ただ、どのくらい先かってことが要領を得ない。
なにしろタイ人は地図が苦手で、距離感覚も非常に大雑把なのである。
その上、僕との会話では言葉の壁も大きく立ちはだかる。
で、彼が提案したのが、僕のバイクを彼が運転、後ろに僕を乗せて待ち合わせの場所まで行くということ。
恐縮して一度は遠慮はしてみたものの、行った先でまた迷子になれば、今度は待っているプランのスタッフに迷惑をかけることになる。
ここは彼の提案に甘えるしかない、というわけで、とうとう道案内のみならず運転手までさせてしまうことになった。

思っていたより長い距離を北へ走っったものの、彼のおかげであっさりとプランのスタッフに会うことができた。
ひとしきりお礼を言い、それではさっきの場所まで今度は僕が送って行くよと告げたら、彼はその必要は無いと言う。
さっきの彼女が一足先に自宅に戻り、彼女の親が車を出してここまで迎えに来てくれることになっているというのである。
そうこうしているうちに、本当に乗用車がやってきた。
運転しているのは父親で、後部座席には彼女が母親と一緒に乗っている。
ただ通りがかりに道を尋ねただけなのに、どこまでこの人たちは手間をかけて面倒を見てくれるのだろうか。
タイ人の親切心には慣れていたはずだが、それでもこの出来事は衝撃だった。

後でお礼の手紙を出したいと思い、手帳に名前と住所を書いてもらって、持っていたテレホンカードをお礼に渡して彼らと別れた。
後であらためて手帳を見てみたら、そこにはなんと彼の名前がカタカナで書かれていて、住所の記載は無かった。
日本語が書けるってのが自慢だったんだろうけど、これでは礼状を出すなんてできないじゃないか!
(続く)

2011-10-12

帰省

2010年6月の訪タイ時、ランプーンの次女の実家に着くと、次女は夫と一緒に帰省していた。
次女の暮らすスコータイからの距離は、東京を起点としたら浜松辺りまで行くくらい。
年に数回帰省するくらいは簡単なものだろうと思っていたが、聞いてみてびっくり。
次女と夫はバイクの二人乗りでこの距離を走ってきたというのである。
もちろん、大型バイクではない。
スポーティなデザインにはなっているが、ベースはホンダのスーパーカブ。
排気量100cc程度で二人乗り仕様にこそなっているが、基本は街乗りであって、長距離ツーリング向きではない。
しかも高速道路ではなく、まっ黒排気ガスのバスやダンプと並走しながらだ。
「なんてことするんだ、ばか野郎。バスを使えばいいだろう」
道中で転倒でもされてたらと想像するとゾッとする。
毎年多くのタイ人が二輪の事故で簡単に死んでしまっているのだ。
今回は僕の訪問に合わせての帰省だったから、余計に責任も感じるのである。
もっとも、当人たちは特別無茶をしたという意識は無いらしく、「タイ人はバイクが好きだから」なんてことを言ってヘラヘラしてる。

その日は、僕の車で次女一家とチェンマイの動物園へ行った。
園内の水族館を見終える頃には皆歩き疲れていて、一瞬、次女がほかのメンバーと離れて一人だけでベンチに座ったことがあった。
そのタイミングを逃さず、僕は次女の前に跪き、ずっと気になっていたことを小さな声で尋ねてみた。
「立ち入ったことを聞くけど、お前、ひょっとしてお腹に子供がいたりはしないか?」
若い新婚夫婦だから、もしかしたらと思っていたのである。
次女の返事は、「わからない。でもいるかも知れない」というものだった。
つまり、兆候こそないが、可能性はゼロではないと。
それを聞いては日本の父ちゃん、もはやバイクの後部シートでスコータイまで帰らせるなんて論外である。
「バス代は出してやるからお前は絶対にバスで帰れ。旦那はバイクで一人帰らせろ。バスターミナルまでが遠いんだったら僕が送っていってやる」

そして丸一年後、再びランプーンの実家を訪問した時、そこに次女の姿は無かった。
今回は僕に会うために帰省することができないと、謝罪の手紙を出したというのだが、ちょうど日本を出たころに行き違いで届いていたことは後から知ったのである。
「どうして帰れなかったの?」とがっかりして尋ねた僕に次女の家族から返ってきたのは、彼女は今スコータイで育児中だからという答えだった。
うーん、逆算すれば一年前のあの水族館での会話、まるっきり見当外れの取り越し苦労というわけではなかったようなのである。

2011-10-08

失態(その2)

乗るはずだった飛行機に置いていかれるという、最悪の失敗をしてしまった。
実は長年視力だけが自慢で、以前ならカウンターのプレートは遠くからでも読めたのである。
ちょうどこの旅のころから遠くが見にくくなっていたのだが、目から入力される情報量が低下していたことに迂闊にも気づいていなかった。
チェンマイ以上に外国人が向かうプーケット行きのゲートだったことも災いした。
タイ人比率の高い東北行きの便だったりすれば、待合スペースの雰囲気ですぐにわかったはずだ。

状況としては非常に困ったことになっているのであるが、実は内心、それほど焦ってはいなかった。
不幸中の幸いで、チェンマイ行きはタイの国内線で最も便数が多いのである。
それほど待つこともなく、次のチェンマイ便が出るはずだ。
カウンターのスタッフも、無線で簡単に連絡を取るや、「大丈夫ですから、安心してここで待っていてください」という。
そして、すぐさま次の便のチケットをその場でプリントしてくれて、その便のゲートまで案内してくれた。
もちろん、追加料金も無しである。
預け荷物についても連絡してくれるとのこと。
この日はチェンマイのホテルにチェックインするだけだったので、夕方の到着が1時間半遅れただけで済んだ。

そもそも搭乗券に印刷されていたゲート番号のほうが間違っていたのだから、空港で迷子になって乗りそびれるような連中とは違うぞ、なんて言い訳は通用しない。
確かに先方にも重大なミスがあったわけであるが、そもそも表示プレートの確認くらいはするべきだったのである。
タイトな旅程では時間こそが最も大切なのだから、人のせいにして済ませられるものではないのだ。
なにより、搭乗予定だった便の乗員乗客にまで多大な迷惑をかけたことになる。
確認する時間はあったのにそれを怠ったわけで、これは大いに反省。

そしてちょうど一年後、たまたま、まったく同じルートをたどることになった。
二度と同じミスをしないようにと自分に言い聞かせながら、受け取ったチケットを見て驚いた。
今度は乗り継ぎゲートの欄が空欄になっていたのである!
下手にゲート番号を書いておいて、万一変更になったりしたときに慌てさせるより、乗り換え空港に着いてから自分で探させれば、そもそも間違えようがないということか。
スワンナブーム空港では、掲示板の表示を確かめてからゲートに向かい、まずカウンターの表示と便名を確かめてから待ち合いのベンチに腰掛けた。
なるほど、これがミスを防ぐための対策としておこなわれていたのであれば、完璧な対応と言わざるを得ない。

2011-10-05

失態(その1)

2010年度訪タイの最大のミスは、コンケーンからチェンマイへ向かう途中で起きた。
バンコクで飛行機を乗り換えることになっていて、コンケーン空港で2便分の搭乗券を受け取る。
預け荷物はバンコクで自動的にチェンマイ行きの飛行機に積み替えてもらえる。

バンコクのスワンナブーム空港は、かつてのドンムアン空港に比べて、とにかく長い距離を歩かされ。
それでも、もう何度も利用しているので、迷うこともなく2枚目の搭乗券に書かれてあるゲートに到着。
すでに多くの人が待合スペースの椅子を埋めていた。
どうやら日本からの便と接続しているらしく、大半が日本人である。
チェンマイは日本人好みの観光地なので、バンコク‐チェンマイ便が日本人だらけになるのはよくあること。
やがて搭乗時刻になり、離陸時刻も迫ってきたが、ゲートはまだ開かない。
飛行機の遅れにはいろいろな理由があるので、いちいちイラついてもしかたがない。
ただ黙って開門を待つだけである。
そうこうしていると、構内放送が日本人らしき乗客の名前を呼んでいるのが聞こえた。
チェックインしているのになぜか搭乗してこない乗客を急かせる、あの恥ずかしい放送である。
なんとなく、その名前が自分の名前に似ていたなあ、なんて思いながら、再び読んでいた文庫に目を戻す。
しかし何やら不安な気持ちがゆっくりと湧き上がり、読書に集中できない。
念のためにと周囲の人をかき分けてゲートのカウンターへ行ってみると、なんと! そこにはチェンマイではなくプーケットと書かれているではないか。
(何で? 何で? いつの間にプーケットのカウンターに変わった?)
周りの乗客は動いていない、ということは彼らは全員最初からプーケット行きの飛行機を待っていたのである。
つまり、チェンマイ行きはちゃんと定時に別のゲートから乗客を乗せていたということ。
さっきの間抜けな呼び出され日本人は、やっぱり自分のことだったのである!
とりあえずこのゲートのスタッフに確認してもらうと、チェンマイ便はたった今、飛び立ったところだと言われてしまった。
手元のチケットに書かれてあったゲート番号が間違っていたのだ。
預け荷物だけがキチンと飛行機を乗り継いで、肝心の持ち主のほうは置いてきぼりをくらってしまったのであった。
(続く)