バンコクのタクシー
タクシー強盗といえば、タクシー運転手が強盗をするという意味なのである。
わざと遠回りしたり、旅行者に何倍もの料金を吹っかける程度のことは悪いこととも思っていない。
ずっと以前、市内の旅社からホアランポーン駅に向かって歩いていたときのこと。
前方から来たタクシーが、右折を中断してこちらに向かってきた。
タイのタクシーは、こちらが意思表示をしなくても「乗りませんか?」とすり寄ってくる。
散策中には結構じゃまくさい存在なのだ。
「歩いていくからいいよ」
断ってそのまま歩き出すと、そのタクシーはさらにバックで追いかけてきて言った。
「駅へ行くんでしょ? ちょうど駅へ行くところだから乗っていけば?」
時間もあるし、距離もそんなに遠くない、何よりゆっくり町見物をしているわけなので、タクシーに乗るつもりなんか毛頭無かったのである。
「いや、結構」
「駅へ行くついでだから、料金はいりませんよ」
「!?」
タダで客を乗せるタクシーなんかあるわけがない。
どうせ乗せてしまえばどうでもなると思っているのだろう、タクシー乗り場の仲間の多いところで因縁つけてボッタクるつもりに違いない。
ということで、逆に興味が湧いてきた。
(よーし、じゃあ、ついていってやろう。雲助タクシーとの攻防は話のタネだ)
駅まではワンメーターの距離である。
人気の無いところへ連れて行かれる心配は無かったので、おそらく、「金払え」「乗り逃げだ」と騒いでみせる手口だろうと見当をつけた。
道中、運転手との会話は全然無し。
大金を見せるとまずいので、最低限の初乗り運賃35バーツだけをこっそりポケットに移し、どんな難癖をつけられても、それ以上は出さない決意で財布をバッグの奥にしまいこむ。
駅前で殴りかかってきたらどう反撃するかとかを脳内でシミュレーションしていると、ほどなく駅のタクシー乗り場に着いた。
「ありがとう、いくらだ?」
「いや、料金はいらないって言ったでしょ」
(え~~っ! あれ、本気だったの??)
若い運転手は本心からの善意だったのに、こちらが勝手に疑心暗鬼状態だったのである。
車中でもずっと仏頂面で身構えていた自分が情けない。
そもそも最初から、舐められてはいけないと、あからさまに不遜な態度で通してきたのだ。
ここで思い当たった。
僕は、自分では分からないのであるが、歩くときにビッコを引いている(らしい)。
おそらく彼は、最初から商売ではなく、タンブン(積徳)するつもりで声をかけてきたのだった。
(疑ってた。申し訳ない!!)
「じゃあ、この35バーツを取っといて」
「本当にいりません、ただでいいと言ったんですから」
「じゃあ、半分、せめてこの20バーツだけでも...」
押し問答しているところへ、タクシー待ちをしていた母娘が近づいてきて、このタクシーに乗ろうとした。
これ以上、言い合っていたら、新しい客にも運転手にも逆に迷惑をかけてしまう。
タクシーを離れ、駅構内に入っても、一方的に負債を負わされた気分で落ち込んでしまった。
雲助タクシー相手の武勇伝どころか、有徳のタクシー運転手に、自分の小人ぶりを思い知らされただけだった。
大都市バンコクはずっと大嫌いな町だったのだが、この出来事からバンコクをちょっとだけ好きになり始めた。
そして、時々、あの運転手のことを思い出しては、今も都会の生活に荒むことなく、元気で頑張っていてくれることを心から願うのである。