訪チャイ雑記

プラン・インターナショナルなどの援助事業を通じて知り合ったタイの子供たちを訪ね歩くチャイルド訪問旅行。その際の出来事などを書きなぐった、あくまで個人的な覚え書きです。万一、同志の参考にでもなれば嬉しいですが、責任はとれません。 質問等もコメントでご遠慮なくどうぞ。

2007-09-30

バンコクのタクシー

バンコクでタクシーといえば、悪い話しか聞かない。
タクシー強盗といえば、タクシー運転手が強盗をするという意味なのである。
わざと遠回りしたり、旅行者に何倍もの料金を吹っかける程度のことは悪いこととも思っていない。

ずっと以前、市内の旅社からホアランポーン駅に向かって歩いていたときのこと。
前方から来たタクシーが、右折を中断してこちらに向かってきた。
タイのタクシーは、こちらが意思表示をしなくても「乗りませんか?」とすり寄ってくる。
散策中には結構じゃまくさい存在なのだ。

「歩いていくからいいよ」
断ってそのまま歩き出すと、そのタクシーはさらにバックで追いかけてきて言った。
「駅へ行くんでしょ? ちょうど駅へ行くところだから乗っていけば?」
時間もあるし、距離もそんなに遠くない、何よりゆっくり町見物をしているわけなので、タクシーに乗るつもりなんか毛頭無かったのである。
「いや、結構」
「駅へ行くついでだから、料金はいりませんよ」
「!?」

タダで客を乗せるタクシーなんかあるわけがない。
どうせ乗せてしまえばどうでもなると思っているのだろう、タクシー乗り場の仲間の多いところで因縁つけてボッタクるつもりに違いない。
ということで、逆に興味が湧いてきた。
(よーし、じゃあ、ついていってやろう。雲助タクシーとの攻防は話のタネだ)
駅まではワンメーターの距離である。
人気の無いところへ連れて行かれる心配は無かったので、おそらく、「金払え」「乗り逃げだ」と騒いでみせる手口だろうと見当をつけた。
道中、運転手との会話は全然無し。
大金を見せるとまずいので、最低限の初乗り運賃35バーツだけをこっそりポケットに移し、どんな難癖をつけられても、それ以上は出さない決意で財布をバッグの奥にしまいこむ。
駅前で殴りかかってきたらどう反撃するかとかを脳内でシミュレーションしていると、ほどなく駅のタクシー乗り場に着いた。
「ありがとう、いくらだ?」
「いや、料金はいらないって言ったでしょ」
(え~~っ! あれ、本気だったの??)

若い運転手は本心からの善意だったのに、こちらが勝手に疑心暗鬼状態だったのである。
車中でもずっと仏頂面で身構えていた自分が情けない。
そもそも最初から、舐められてはいけないと、あからさまに不遜な態度で通してきたのだ。
ここで思い当たった。
僕は、自分では分からないのであるが、歩くときにビッコを引いている(らしい)。
おそらく彼は、最初から商売ではなく、タンブン(積徳)するつもりで声をかけてきたのだった。

(疑ってた。申し訳ない!!)
「じゃあ、この35バーツを取っといて」
「本当にいりません、ただでいいと言ったんですから」
「じゃあ、半分、せめてこの20バーツだけでも...」
押し問答しているところへ、タクシー待ちをしていた母娘が近づいてきて、このタクシーに乗ろうとした。
これ以上、言い合っていたら、新しい客にも運転手にも逆に迷惑をかけてしまう。
タクシーを離れ、駅構内に入っても、一方的に負債を負わされた気分で落ち込んでしまった。
雲助タクシー相手の武勇伝どころか、有徳のタクシー運転手に、自分の小人ぶりを思い知らされただけだった。

大都市バンコクはずっと大嫌いな町だったのだが、この出来事からバンコクをちょっとだけ好きになり始めた。
そして、時々、あの運転手のことを思い出しては、今も都会の生活に荒むことなく、元気で頑張っていてくれることを心から願うのである。

2007-09-23

十一日目・出国

スワン新空港へは夜までに行けばよいので、チョンブリの安ホテルから長距離バスで再びエカマイまで戻った。
昨日入りそびれた科学館に行くためである。
プラネタリウムに行くと、ちょうど上映直前だった。
荷物を預けて中に入ると、学校遠足の団体がかたまって座っている。
(プラネは北側の最前列がいちばん自然に見えるんだよ)
がら空きの最前列中央に陣取って上映を待っていると、暗くなって注意書きのスライドが始まる。
(あれ、なんで背中側に投影されてるの?)
どうやら、北側と思った席は正反対の南側だったらしい。
あわてて席を移動すると、そこにいた女子中学生たちにあからさまに警戒されてしまった。
暗くなってからいきなり傍に寄ってったからね、ごめんね。
その後、科学館と水族館も駆け足で見て、再びバスターミナルに戻って、タクシーを拾う。
新空港を探検したほうが面白そうなので、さっさと空港に行くことにしたのである。

空港で昼食をとったら、入国時に両替したバーツの残金が小銭だけになってしまった。
すでに缶コーラはもちろん、空港価格の飲料水さえ買えない。
ま、飛行機に乗っちゃえば飲み放題、それまでしばらく我慢しよう。
空港の隅っこで静かな場所を探して、連絡のつく相手に電話をかけまくる。
ノンカイのジョー先生とは、ここで初めて話をした。
今回は顔を合わせることもできなかったし、これまでもメッセンジャーでチャットするだけだったけど、旧知のような気がする。
子供たちにも一通りさよならを言うと、もうすることがない。
金も無いし、歩くのも疲れてしまったので、以後は持参した文庫本でチェックインまで過ごした。

2007-09-21

十日目・三人目の孫

三女の息子はまだ生後8ヶ月。
当然、立ち上がることもできないので、床に這いつくばっているか、抱かれているかである。
手を差し出してみると、すんなり抱かれてきた。
初対面であるが、泣くこともなければ、祖母の手に戻ろうともしない。
もともと人見知りしないのであろうが、はるばる海を越えてやって来た日本のじいちゃんは、孫になつかれるのが何よりも嬉しいのである。

よだれでベトベトした手で顔をなでまわされても、抱いている腕にオシッコがつたってきても全然平気。
三女が仕事から帰るまで時間があったので、赤ん坊を抱いて近所を歩き回ってみた。
近くに住んでいるお母さんたちにも、子供同士を遊ばせるように近づくので警戒されることも無い。
ここは周囲が畑に囲まれた小さな集落で、社宅と思われる建物がいくつかある。
小さな雑貨屋があったので、えびせんとコーラで遅い昼食とした。

5時を過ぎた頃に三女が戻ってきた。
最後に会った時は大人しい女子高生だったのが、今は働く母親である。
見違えるほどしっかりしてきていたが、化粧もせずにいたのが嬉しかった。
勤め先は電器関係の工場で、リモコンの組み立てをしているらしい。
給料を聞くと、ほぼ県の最低賃金である。
夜勤でない分、次女のところよりも低額であった。
ともあれ、元気そうなのでひとまず安心である。

この日のうちにバンコクまで戻ることは諦めたが、近くに宿が無いとのことなので、チョンブリ市内までは戻ることにした。
1キロほど離れたバス停まで三女が送ってくれたので、そこからはバスで移動。
道中、どこまでも広がる景色がどんどん暗くなっていって、ついには何も見えなくなる。
長いこと心配の種だった三女の無事を確認でき、三人目の孫とも仲良くなれたことで、ずいぶん気持ちは楽だったが、それでもいよいよ今回の旅が終わると思うと寂しくてしかたがない。
できることなら、もう一度、逆周りで全員に会って帰りたいくらいである。

2007-09-18

十日目・三女の家

三女の家は思ったよりもひどいところだった。
サコンナコンの実家は、いまにも崩れそうではあったが、高床式で二部屋あった。
ここチョンブリの家は外の地面と同じ高さの一間で、部屋の隅を仕切って水浴び場兼トイレがあるだけ。
火を炊いての調理もこの部屋の床でしているらしい。
これと同じつくりの家が壁で仕切られただけで5軒ほどつながっている。
まるで、貸しガレージのシャッターの代わりにドアを付けただけといった感じである。
窓も無く、ドアを開け放しておく以外に風を入れるすべも無い。
床は打ちっぱなしのコンクリートで、あちこちに蟻の道ができている。

近所のおばさんの案内でタクシーを降りてから、この家を覗き込んだとき、出迎えてくれたのは三女の祖母だった。
三女はまだ仕事から帰っていないとのこと。
しかし、最も驚かされたのは、祖母に抱かれている赤ん坊の存在だった。
「この子、もしかして、、、」
「ジラパンの子だよ」
「え~~っ!」
そういった状況を一度も想像しなかったわけでは無いが、やはり直接目にするとショックは大きい。
もちろん、三人目の孫の誕生に喜びも大きいのではあるが、写真でしか知らないものの、僕は三女の夫をまだ認めてはいないのである。

すかさず室内を見渡してみるものの、壁にかけてある衣服とかにも男の住んでいる気配が無い。
そもそもベッドが一つっきりでは、嫁と赤ん坊と嫁の祖母の4人で一緒に寝るってわけにもいかんだろう。
(これはすでに離婚済みだな)
写真で見た、軟弱で頭も悪そうな夫が気に入ってなかったので、もしもすでに離婚してしまっているのなら、それはそれで喜ばしいことだと勝手に決め付ける。
が、聞いてみると、別に離婚したわけではなく、夫は今は軍隊に入っているのだそうな。
職業軍人とは絶対に思えないので、運悪く徴兵のくじにでも当たったのだろう、ざまを見ろなのである。
あの男が兵隊では国のためにはならんだろうが、少しでも鍛えられるのであれば、家族のためにはなるかもしれない。
ま、戦死を期待してはかわいそうなので、あとは兵役を終えるまでに多少なりとも男らしくなってくれることを願うだけである。
そもそも、こんな家に住まねばならないのも、やつの甲斐性の無さが原因なのだから。

2007-09-17

十日目・バンコク、そしてチョンブリへ

コンケーンからバンコクへは飛行機で移動。
忙しくて予約していなかったのだが、幸い空席があって予定通りバンコク入りできた。
毎年、バンコクは通過するだけなのだが、今年は三女のいるチョンブリ県まで行くため、乗り物をいろいろ乗り継がねばならない。
コンケーンからの便は旧空港であるドンムアンに着くので、そこから鉄道で市内に入った。
終点のホアランポーン駅からは東部方面行きのバスターミナルがあるエカマイに向かう。
久しぶりのバンコク市内の移動なので、ややこしいバスは敬遠してタクシーにした。
後から思えば高架鉄道BTSを使うべきところだったのだが、その存在を忘れてしまっていた。
バンコク市内では完全に浦島太郎状態である。
エカマイのバスターミナルはプラネタリウムのある科学博物館に隣接していて、バス待ちの間に立ち寄ってみるつもりだったのだが、ちょうどチョンブリ行きの便が出るところだったのでパス。
数年ぶりに娘に会えると思えば、プラネタリウムなんぞに未練は無い。
乗り込んだバスはまもなく発車して、予定よりもかなり早くチョンブリに着くことができたのだった。

さて、チョンブリでバスを降りてからが大変である。
住所のメモはあるものの、ここからどう行けばよいかまったくわからない。
バイクタクシーが声をかけてくるが、大きな荷物を提げて何十キロもの距離をバイクの後席に乗ってはいられない。
バイクタクシーを断ると代わりにタクシーを呼んでくれた。
が、このタクシーが料金を吹っかけてくる。
500バーツ(約1800円)だと言うのである。
これは通常料金のほぼ2倍とみた。
相場を知らない旅行者と見られたことが口惜しかったが、ここはちょっと思案してこの料金を呑むことにした。
先方はチョンブリ市内におそらく空車で戻らねばならないのだろうし、何より倍額払っておけば、運転手に対して遠慮せず、いろいろと便利に使えるからなのである。
なぜなら、これから行く場所は公共施設でも目立つ場所でもないので、まずストレートにたどり着けるとは思えないのだ。
そこで、道行く人に尋ねまわったり、場合によっては三女に電話をして誘導してもらったりしなければならない。
それらをすべて運転手にやらせる算段である。
実際、何度か電話で確認する際にも運転手は自分の携帯を使ってくれるし、最後に家を見つけるまで、すべてお任せで済んだ。
運転手は帰りにも呼んでくれと、携帯番号を教えて帰っていったが、残念でした、市内へ戻るにはバスで十分。
ともあれ、こうして、わりとスムースに三女の住む長屋に到着することができたのだった。

2007-09-15

九日目・8番ラーメン

イサーン(タイ東北)滞在も今宵限りということで、エリーと妹が食事に誘ってくれた。
骨折で歩けないことから、近くの店でということになって連れて行かれたのが、最近タイでもどんどん店舗を増やしている8番ラーメンのお店。
何でタイまで来て日本のラーメン屋なんだ??
そういえば、初日は寿司屋へ連れて行かれたし。
先方にすればこれが接待のつもりなのだろう。
もし、誰かタイ人が僕を訪ねて日本に来ても、気を利かせたつもりでタイ料理店に連れて行くことだけは絶対にやめようと心に決める。

運ばれてきた味噌ラーメン、冷めん、ギョーザと見ていけば、量や味付けが微妙にタイ人向けになっていることがわかる。
このあたりが海外展開の秘訣なのだろう。
逆に内装やメニューなどは徹底的に日本式で、うっかりすると、ここがタイであることを忘れそう。
これもまた客に喜ばれる雰囲気作りなのだと思う。
ただ、あちこちに書かれてある日本語の意味を尋ねられたのには閉口した。
「さくさく」なんて言葉、タイ語でも英語でも説明できないよ。

このとき同行した妹が、自分は買い物をしたいからと言って、さっさと店を出てしまったのには驚いたが、実は僕へのお土産を買いに行ったのだった。
帰ってきたときにはきれいな包装紙にリボンのついた包みを持っていて、「あなたにじゃないよ。あなたの家族へのプレゼントだからね」って。
車を何日も借りるだけでも恐縮なのに、いつも本当にありがたいことである。
もっとも、この包みの中が、けっこう壊れ物だったりするので、あとが大変なのだが。
前回いただいたのは一村一品運動の工芸品で、ミニチュアの食器棚だった。
日本に帰ってから、割れたガラスの棚を復旧するのにどれほど苦労したことか。
そして今回は花を模った陶器である。どうやって持って帰ろう?
これが嫌がらせでなければ良いのだが。

2007-09-10

九日目・プーウィエン撤退

訪問を終えて、プーウィエン事務所で聞いたプラン撤退のスケジュール。
2007年12月 プーウィエン、ボラブー終了
         統括事務所、コンケーンからバンコクに移転
2010年 6月 ノンブアランプー終了
2011年 6月 シーサケート、チェンライ終了
         プラン・タイランド撤退

ボラブーのスタッフには別件で偶然知り合ってお世話になったいきさつもあるので、ぜひ一度事務所を訪ねてみたかったのだが、今となっては後の祭りである。
コンケーン以外ではチェンライの事務所に2回行ったことがあるが、それももう何年も前のことである。
さあ、来年もし、訪タイすることができたとして、コンケーンにもプーウィエンにも事務所が無いとなれば、どうしよう?
時間があればシーサケートやノンブアランプーも訪ねてみようか。
意外と顔見知りの職員がそっちに転勤になってるかもしれないから。

2007-09-09

九日目・小学校訪問

チャイルドの家から学校までは約500メートル。
車だとすぐである。
「じゃ、そろそろ学校へ」
というわけで、チャイルドとプランのスタッフを連れて学校訪問である。
この学校もタイでは平均的な規模である。
校舎は木陰にあって、わりと涼しい。
校庭にはバレーボールのコートが一面あるのだが、そこだけコンクリートで舗装してあるのが、ちょっと不思議。

先生とはPCをあいだに挟んで筆談する。
その間、プランのスタッフは別室でほかの先生と雑談している。
小学校低学年では、成績やら進路やらの深刻な話がないので楽である。
後はお土産のビデオCDと絵本を渡してオシマイ。

プランが、秋にはこの地域から撤退することになっているけれども、たぶん来年もここへは来ることになるだろう。
実は、長女の家に向かう途中で道に迷った際、うっかりこの学校の校庭に入ってしまい、そのまま通り抜けて行ったのだった。
日本の1.5倍の国土だというが、意外とタイは狭いのである。

2007-09-03

九日目・ランチ

昼になると母親が昼食の用意をしてくれる。
もう、何回この家で食事をしたか憶えていないが、メニューは毎回一緒である。
おかずは淡水魚、おそらくプラーニンの塩焼きに玉子焼きとパパイヤのサラダ(ソムタム)の3種、ご飯は炊飯器で炊いたタイ米と蒸したもち米(カオニャオ)である。
飲み物には近所でコーラと氷を買ってきてくれている。

箸は使わず、フォークとスプーンで食べるのだが、もち米は基本的に手で食べる。
もちろん、同行した連中も含めて、食前に手を洗っている者はいない。
電気は来ているが水道は無いのだ。
したがって、キレイの国から来た日本人にとって、衛生上のリスクは、実は小さくない。
床に置かれた食事の周りを飛び交っている蝿の数も20は下らないだろう。
というわけで、非常に残念なのだが、炊飯器から直接皿にとりわけたタイ米はともかく、もち米には手を出したことが無い。
おかずの味は、激辛のソムタムも含めて、日本人の好みに合っていると思う。
食器や食材をどうやって洗ったかということを想像しないようにさえしておけば、実は結構ここでの昼食は楽しみの一つなのである。

2007-09-01

九日目・まんが本

四男へのおみやげは現地の書店で買った本3冊。
家には本と呼べるようなものは全くといってよいほど無いので、自分の本を持つ喜びを知ってもらいたかった。
とはいっても、いきなり難しい本を読ませて、読書嫌いになられては本末転倒である。
で、選ぶのは「まんが本」ということになるのであった。

まずは、コミック版シャーロックホームズの第1巻。
名作文学のまんが化作品で物語の面白さに目覚めさせようという作戦である。
表紙は日本人によるアニメ風の絵柄であるが、オリジナルが日本かどうかは不明。
次は学習まんがのシリーズで地震を扱ったもの。
タイでは日本の学習まんがが多く翻訳出版されているが、こちらは韓国の作家によるものらしい。
といっても、日本の影響を大きく受けているらしく、なぜか建物の看板などは日本語で書かれていたりする。
3冊目はタイの僧侶の伝記まんがである。
一生懸命勉強すれば逆境に打ち勝って立派な人になれるという実例(だと思う、たぶん)をみて、多少なりとも向学心が増せば、という思惑で選んだ。

もっと小さい頃は、おもちゃで喜んでくれれば、こちらも満足であったのだが、学校に通うようになると、まんが本を選ぶのにも、何らかの好ましい影響力を期待してしまう。
もちろん、下品なギャグまんがは、最初から選択肢には入らない。
本屋で1時間ほどかけて選んだのだが、すっかり日本式教育パパの目になっていたのであった。